先日のブログ「無量寿仏観経」で、「すなわち南無までも阿弥陀仏の名号とすることの意義は、のちに別時門の六字釈のところで明かされていく。」とあるので、梯實圓和上著の『玄義分抄講述』から、その幸西大徳の六字釈の部分をUPする。
六字釈
[本文]
一、従「今此親経」下至「必得往生」已來ハ、願行本ヨリ具足セリ、具不具ヲ努クスヘカラスト也。斯乃上二餘願餘行ヲキラハムカ為二、但行但願ノ無所至ナル事ヲ論ス。重々ノ問答ヒトヘニ願行ノ具不、相績ノ有無ヲ取捨スルニ似タリ。故二今願ノ眞實ノ相ヲ結シテ行者ノ安心ヲ定ム。當知南無阿彌陀佛ト念スル外二歸命モ入ルヘカラス、發願モ入ルヘカラス、廻向モ入ルヘカラス、唯佛智ヲ了スル一心二皆具足スト也。
[意訳]
一、「今此観経」より、下の「必得往生(必ず往生を得)」に至るまでは、(南無阿弥陀仏には)願行が本来具足している。いまさら具しているか具していないかを考えて心をつかれさせるべきではないというのである。すなわちこれは上に、余他の願、余他の行をきらい捨てるために、行のみでも、願のみでも至る所がない(果が得られない)と論じてきた。上来のかさねがさねの問答は、行者のはからいによる願と行の具と不具、相続の有無を取捨するものであるようにみえた。それゆえ今は願の真実のありさまをあらわしてしめくくり、行者の安心のありようを定めたのである。それは、南無阿弥陀仏と称念する外に、帰命も(外部から)入れてはならない、発願も入れてはならない、廻向も入れてはならない。ただ仏智(南無阿弥陀仏)を領解する一心にみな具足しているということを知るべきであるというのである。
[講述]
「一、従今此観経下至必得往生已來ハ、願行本ヨリ具足セリ、具不具ヲ努クスヘカラスト也」とは第四間答のなかの六字釈についての幸西独白の見解をのべたものである。「玄義分」の文は次の如くである。
今此の観経の中の十声の称仏は、即ち十願・十行有りて具足す。云何が具足する。南無と言ふは即ち是帰命なり、亦是発願廻向の義なり。阿弥陀仏と言ふは即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生を得。(三六六頁)(*)
幸西はこの六字釈によって「願行本ヨリ具足セリ」という。「本ヨリ」とは本来ということで、行者のはからいを超えていることをあらわすから、南無阿弥陀仏に本来願行を具足しているのであって、行者のはからいによって具足するものではないというのである。それゆえ「具不具ヲ努クスヘカラス」というのである。念仏して願行を具足していくのではなく、念仏していることは本来六字の名号に具足している願行を領受しているありさまに外ならないというのである。
上来の問答において願のみでも行のみでも往生は出来ないといって願行具足すべきことを論じて来た。それはまるで行者のはからいによって具したり具さなかったり、あるいは行者の努力の有無によって相続したりしなかったりするかのような明し方であった。そこでここに来って第四間答の「願の意云何ぞ」という問いに答えて願の真実のすがたをあらわして行者の信心のありようを確定して問答を結ぶのがこの六字釈である。すなわち「南無阿彌陀佛ト念スル外二歸命モ入ルヘカラス、發願モ入ルヘカラス、廻向モ入ルヘカラス、唯佛智ヲ了スル一心二皆具足スト也」と知らせようとして六字釈が施されたというのである。
この「南無阿彌陀佛ト念スル」とは、「十声の称仏」のことであるから、南無阿弥陀仏と称えることである。しかしあえて「念スル」といって「称スル」といわないのは、それがそのまま「佛智ヲ了スル一心」すなわち信心でもあることをしらせようとしたものではなかろうか。ともあれ「南無阿弥陀仏」と仏智を領受して称えるところに、帰命も、発願も、廻向も具足しているのであるから、行者の方から別して帰命したり、発願したり、廻向したりしてつけ加える必要はないというのである。それを幸西は、すべて「佛智ヲ了スル一心二皆具足」しているからであるといわれる。仏智とは弘願であり、南無阿弥陀仏の異名であることはしばしば述べたところである。仏智を了するとは本願を信受することであり、南無阿弥陀仏を領受する信心のことであるから一心」というのである。
なおここには行について特別の釈は施されていないが、南無阿弥陀仏が往生行として選択された行体であることは法然門下の人々にとっては自明のことがらであったからである。また上来しばしば乃至一念を行とするということがいわれていたが、幸西は一念が往生行であるのは、称えて行にするというよりも、行である名号を称えてあらわすというような意味さえもたせていたといえよう。
こうして幸西は、南無阿弥陀仏とは、本来衆生往生のための願行を具足していて、往生の真因たるべく成就されている法であるとみられていたことがわかる。いいかえれば阿弥陀仏だけが名号なのではなくて、南無までも名号であり、衆生の帰命と発願廻向を法としてすでに成就されていることをそこにあらわしているとみられていたことがわかる。釈名門に「無量壽ト云ハ念佛、彼ノ佛ノ名ヲ念ス、故二南無阿彌陀佛ト釋シ御セリ」といい、その所念の法をさして「當知南無阿彌陀佛トイハ決定成佛之因也ト云事ヲ」といわれていたが、六字名号が決定成仏の因であることを、今は願行具足の法として釈顕されたのである。この願行具足の名号を選択した願心が大乗広智とよばれる仏智であり、その願心を表明したのが弘願であり、その願心を領解し仏智と相応しているのが信心(一心)であった。その信心は一声の称名にあらわれている南無阿弥陀仏が願行具足した往生の生因であると了知する心であるから、「信をば一念に生るととる」といわれるというのが幸西の一念の義であった。
幸西大徳は「行者の信念と佛心相應して、心、佛智の願力の一念に契い、能所無二、信智唯一念、念相續して決定往生す。」(*)とされており、非常に一念の信を強調された。
この信は『無量寿経』に説かれる、「仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智」(*) の中の大乗広智であり、あらゆるものを運載して成仏せしめるという大乗の広智のことである。そして幸西大徳にとっては、南無阿弥陀仏とはそれを選択せられた背後の大乗広智という智慧が信の体であったのである。
御開山は「大信釈」で、
しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。(*)
と、真実の信楽を獲得することは、「博く大悲広慧の力によるがゆゑなり」とされておられる。この広慧の力とは『如来会』の、
「汝、殊勝智の者を観ずるに、彼は広慧の力に因るが故に、彼は蓮花の中に化生することを受けて、結加趺坐す。」(*)
の「因広慧力故」(広慧の力)という言葉によられたのであろう。
ともあれ御二人に共通することは、信の強調とその信は仏智を体としているということであった。家の三千回以上の聴聞を重ねた爺さんは「ご信心ちゅうのはな、仏智満入ちゅうて阿弥陀さまの智慧がこの五体に入り満ちて下さるちゅうことやぞ」と、よく言っていたものである。
その阿弥陀如来の仏智が、なんまんだぶという相をとって私の上に顕現しているということが浄土真宗における行/信の据わりであった。
法然聖人が「信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはけむへし。」と、仰せられた所以である。(*)
(35)
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし
なんまんだぶは智慧であり、信心もまた智慧であったのである。なんまんだぶを称えるということは、ありえないことが私の身の上に起こっていることへの驚きであった。ありがたいこっちゃな。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
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