前川五郎松っあん。
ばあちゃん(母親)が懇意にしていたので、自宅へ来て頂いたり訪問したりのときに運転手役をさせられたものだ。
飄々とした爺さんだったが、偽者のこしらえた信心を見分けるのが得意であり、優しさの中にありながら厳しい人だった記憶がある。
以下の詩には題名がないのだが、文中の一文を採って「煩悩や なにかつかまな さみしいか」としておく
夕立や 降りよが足らんで あがらんぞ
よろこびや どこまでつづく 狸爺々
ありがたや ありがたいのを どうするの
ありがたや ありがたいのが いのちとり
煩悩や なにかつかまな さみしいか
狸爺々 なにかつかむと うれしいか
弥陀仏を あてにしてると はずれるぞ
おたすけや われが力きむと つな切きれる
そのままや わがまま気ままと まちがうな
わがままを このまま救いと たわけるな
なあ爺々や 聞こえたつもりが あぶないぞ
わが心 知れた思いが 買いかぶり
凡夫とは わが身を許いて 高いびき
知れたとは わが身にこわくて 泣く人を言う
青空に たこはあがれど ひもつきじゃ
こら爺々 爺々の安心 ひもつきじゃ
この爺々は 頭さげれど ひもつきじゃ
これほどに よろこばれるのが 危ないぞ
これほどに よろこばれるのが いのちとり
これほどに これまでつかんで すわりこむ
念仏は 聞けよ聞けよの 誘いだし
誘われて 断りするのに いそがしい
阿弥陀さん 呼ばずに 居れん業なひと
この爺々は 呼べど こがせど 逃げまわる
つまずきは 忘れ心に ごさいそく
悲しみは 親に賜る知恵袋 「一息が仏力さま」より
なんまんだぶのご法義は、自己のこしらえた固く堅く思い固めた信心から開放するご法義なのだが、 自我の確立という視点で信を考えるととたんに判らなくなるんだろうな。とはいえ、他力の語に騙されて能称のなんまんだぶをを否定する輩にも困ったものだ(笑
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
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