梅原猛氏の浄土教に対する考察には、ちょっと?の部分があるのだが、若い頃は「梅原猛著作集」のシリーズの配本を受けてたりした。大谷派の坊主が常に機の深信の話をするので「地獄の思想」というものに興味があったからである。
もっとも内容は、ほぼ完璧に忘れていたりする(笑
明治以降の近代化という波のなかで、世間の死生観が変化したこともあり、それに対応するため、言葉を変えて世俗に迎合するために近代教学というものが生まれたのであろう。中学生の頃、爺さんの本箱から、清沢満之師の「我が心念」という小著を引っ張り出して読み少しく感動し、我が家のなんまんだぶの御開山って宗教は、あまり莫迦には出来んなと思ったこともある。
しこうして、色々紆余曲折はあったのだが、俵山の和上の梵声猶雷震という驚くべきご法義の規矩に出遇って、一人の愚か者として落居したとき、なんまんだぶを称え仏陀になるという教説を領解することが出来た。
爾来、暇つぶしでお聖教を拝読し、これはこれはと、よく組んであるなと御開山の「教行証」を披いて浄土教の綱格を学んでいたりする。
そんなこんなで、近代教学や現代教学を論ずる前に、御開山聖人や、なんまんだぶを称えて生死を超えてきた名も無き群萌に、自らの想いを同値する道もあるのであろう。
林遊が坊主を嫌いで攻撃する訳は、本願に選択摂取して下さった、なんまんだぶを称える門徒を坊主が揶揄し軽侮するからである。林遊が在家の身でありながら、せめて坊主程度にはお聖教を拝読し、浄土真宗のご法義はなんまんだぶを称える御宗旨ですと、ありもしない信心に狂っている坊主に、なんまんだぶに乗せられた本物のご信心をぶつけるためでもあった。
坊主ほど、なんまんだぶを称えない奴はいないのだが、特に大谷派の近代教学とやらに毒された莫迦坊主は始末のしようがないな。
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
坊主が、口角泡をとばして信心を論ずるまえに、お前は、なんまんだぶせぇやと思ふ日々ではある。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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2013年4月23日 6:57 AM
自身をかえりみると、我が身のことを言われている気がしてなりません。なまんだぶつ。ありがとうございます。