覚如上人は、あまり好かんのだが、『改邪鈔」に、
(御開山の)つねの御持言には、「われはこれ賀古の教信沙弥 [この沙弥のやう、禅林の永観の『十因』にみえたり] の定なり」と[云々]。
しかれば、縡を専修念仏停廃のときの左遷の勅宣によせましまして、御位署には愚禿の字をのせらる。これすなはち僧にあらず俗にあらざる儀を表して、教信沙弥のごとくなるべしと[云々]。(*)
と、ある。
たまたま『往生拾因』を読んでいて、ふと思い出したので、読み下し文をUPしてみる。
1000年以上前の念仏者の行業であり幾分の脚色もあり、なおかつ現代と時代背景は違うのだが、なんまんだぶを称えて往生された先達がいて下さったのは、有り難いことである。
また散乱の人の観法成じ難きが為に、大聖悲憐して称名の行を勧めたまふ。称名は易きが故に相続し自念して昼夜に休まず、豈に無間に非ずや。また身の浄・不浄を簡ばず、心の専・不専を論ぜず、称名絶えざれば必ず往生を得。運心、日久しくば何ぞ引接を疑わん。また恒(つね)の所作は是れ定業なるがゆえに、これに依つてただ念仏者、浄土に往生す、その証一にあらず。
かの播州の沙弥教信等これその仁(ひと)なり。
本朝孝謙天皇の御宇。摂津の国の郡摂使 左衛門の府生時原の佐通の妻は、出羽の国の総大判官代 藤原栄家が女(むすめ)なり。
然るに年来、子息無きことを歎きて、毎月十五日に沐浴潔斎し、寺塔に往詣して男子を祈乞す。三箇年をへて既に以つて懐妊す。天応元年{辛酉}四月五日男子を平産す。しかるに児すでに七歳に及びて、母家業を事とせず。愁嘆の色あり。
夫、奇(あや)み問いて云く。仁(なんじ)何んぞ不例の気色あるや。
妻、答えて云く。生子、漸(よう)やく以つて成長せり。今に至りては、尼の為とて偏に念仏せんと欲す。然れども夫に順ふの身と思いながら徒(いたずら)に日を送れりと。
夫、是の語を聞きて云く。仁(なんじ)が思ふところ尤も然なり。我も同く髪を剃りて共に念仏すべし。児童においては他人に談(かたら)い付けん。児これを耳に聞きて、面をあおぎみて涙を浮ぶ。此れより以後已に遊戯を止む。
明朝乞食の僧、門外に立てり。家女悦びて以つて請じ入れ供養して即ち出家を乞ふ。
僧の云く。未だ衰老にも至らず、病患にも臨(のぞ)まず、今出家を求むるは、是れ最上の善根なり。
此れを聞きて弥(いよいよ)以つて喜悦す。夫妻共頭を剃る。時に年夫四十一 妻三十三なり。次に七歳の童子、同じく出家を乞ふ。共に受戒しおわんぬ。修行の僧、留住して経典を教え念仏を勧む。
小僧の名を勝如と注(しる)す。『阿弥陀経』並びに不軽の作法を教ふ、此のごとくすること三箇年。其の後、件(くだん)の僧、行き方を知らざるなり。
延暦十四年{乙亥}二月十八日の朝。入道、尼と共に同じく沐浴して読経念仏して、夜半に至りて両人命終す。その時に家中の男女これを知らず。勝如傍において金鼓を打ちて仏号を唱ふ。近隣聞き驚きてこれを問訊する。また一周忌おわりて、勝如、不軽の行を修す。すでに十六万七千六百余家を礼拝することを得たり。この慧業をもって二親に迴向す。不軽の間、門門に臨むごとに香気自熏す。見聞の道俗、皆これを以つて奇とす。その後、勝尾寺に登りて、証道上人を師となして、顕密の正教を学す。すでに七箇年をへて、遂に寂寞の地を卜(ぼく)し、別に草菴を結構し念仏定を修すること五十余年、道を味わい疲れを忘れて五日に一たび飯す。言語を禁断すること十二箇年、同行弟子相見することもっとも希なり。
時に貞観八年八月十五夜空に音楽を聞く。これを奇(あや)しみ思ふ間に、人、柴戸を叩く。ただ咳声をもつて人ありと知らしむ。
戸外の人、陳(の)べて云く。我はこれ播磨の国賀古の郡賀古の駅の北の辺に居住せる、沙弥教信なり。今、極楽に往生の時なり。上人は明年の今月今夜、その迎えを得べし。この由を告げんが為の故に以つて来れるなり。しかる間、微光僅かに菴に入り。細楽ようやく西に去るなり。勝如驚怪して明旦、僧勝鑑を遣わし彼の処を尋ねしむ。勝鑑、昼夜を論ぜず彼の国に発向す。往還の人に対(むか)うごとに教信の往生の事を問ふに、あえて答ふる者なし。
稍(ようやく)賀古の駅の北を見れば小廬あり。その廬の上に当りて鵄烏集り翔(かけ)る。ようやく近き寄り見れば、群狗競いて死人を食ふ。傍(かたわら)の大石の上に新たなる髑髏あり。容顔損ぜず、眼口咲(え)めるに似たり。香気薫馥す。たた廬内を臨めば、一老嫗一童子のあり。相共に哀哭する。すなわち悲情を問ふ。
嫗が曰く。死人はこれ我が夫、沙弥教信なり。去十五の夜、既に以つて死去す。今、三日に成れり。一生の間、弥陀の号(みな)を称して、昼夜に休まず以つて己が業となす。これを雇ひ用うる人、呼びて阿弥陀丸となす。これを日を送る計となして、すでに三十年を経たり。この童はすなわち子なり。今、母と子と、共にその便(たより)を失いて、為さん方を知らざるなり也。
ここにおいて村里の男女往還して、道俗具(つぶさ)に勝鑑の来れる由を聞きて、星のごときくに馳せ雲のごとくに集り、彼の髑髏を迴(めぐ)りて、歌唄讃歎す。勝鑑、速(すみやか)に還りて上に件(くだん)の事を陳(の)ぶ。
聖人、これを聞きて自から謂(おも)へらく。我が年来の無言、教信の口称にしかず。恐くは利他の行疎(おろそ)かならん。
同じき二十一日を以つて、故(ことさ)らに聚落に往詣して、自他共に念仏すと 云云。
明年の八月一日、本処に隠居す。その期日に至りて出堂沐浴して、弟子等に語(かたるら)く。教信の告げ今夜に相(あ)い当れり。今生の言談、この度びばかりなり。
涙を抑へて入堂して香華を弁備し、線を仏の手(みて)に付けて念誦例のごとし。しかる間、漢月影静かにて松風声斜なり。漸く漏剋を運びて夜半に到る程、楽音髣(ほのか)に聞へ、異香且(かつ)芬(にほ)ふ。聖人音を合わせて念仏す。聞く者歓喜するに少なからず。光明たちまちに照し紫雲室に満つ。上人西に向ひ印を結び端坐して入滅す。時に年八十七。遺弟等悲喜交集して、双眼より涙を流す。結縁の上下二百余人、三七日夜、かの屍を囲繞して不断に念仏す。この間、白(香)気なお以つて絶えず。結願の後にまさに火葬を以つてせんとするに、手印焼けず灰中に在り。たちまちに石塔を起(た)てこれを安んじ既に畢(おわ)れり。今、燧石の塔と号するは是れなり。具(つぶさ)には彼の上人伝に載(の)す。
ここに在家の沙弥といえども、無言上人に前(さきだ)つこと、是れ弥陀の名号の不可思議に依つてなり。教信、これ誰ぞ、何んぞ励まざるや。其の心を練磨して称名退せざれ。彼の常念観音の者、なお、この三毒の離れ難きを離る。いわんや常念弥陀の人、なんぞ易往の浄土に往かざる。
もし常途の念仏勇進することあたわずんば。此の経の説に依つて臨時の行を修すべし。要(かなら)ず、すべからく閑処にして道場を料理し、まず西壁において弥陀像を安んず。もしは一日もしは七日、堪えるに随つて荘厳し、力に随いて供養せよ。持戒清浄にして威儀具足すべし。毎日三時あるいは四時あるいは五時あるいは六時、毎時に三万あるいは二万あるいは一万あるいは五千。行者の意に随いて発願し回向し専念勤修せよ。綽禅師のごときは七日の念仏に百万遍を得たまえり。もし七日夜、勇猛に精進すれば、終焉の暮に至りて弥陀の加を被(こうむ)る。あに永劫の安楽の為に七日の苦行を励まざらんや。
『往生拾因』は、ここにある、資料としては、wikiarcの「教信沙弥」の項のノートにUPしておいた。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
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