信疑決判と他力自力対判

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
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聞見という言葉は「行文類」にもあるのだが、面白い材料(ネタ)があったので暇つぶしに考察してみた。 →「ノート:聞見…殊勝と名づく」

現在の『大正蔵経』の『十住毘婆沙論』では、

信力増上者。信名有所聞見 必受無疑。増上名殊勝(*)

と、なっている。この場合は、

信力増上とは、信は聞見するところあるに名づく。かならず受けて疑ひ無し。殊勝を増上と名づく。

と訓ずるのであろう。御開山の所覧本には、

信力増上者何名有所聞見必受無疑。増上名殊勝

と、信が何になっていたので、

信力増上はいかん。聞見するところありてかならず受けて疑なければ増上と名づく、殊勝と名づく。(*)

と、訓じられ、聞見するところを受けて疑いの無いことを、増上であり殊勝とされたのであろう。つまり、受けて疑いの無い「無有疑心」を、信心の意とされたのである。阿弥陀如来より賜る信心であるから、増上であり殊勝なのである。

このような読み方は、法然聖人の信疑決判釈、

当知 生死之家以疑為所止 涅槃之城以信為能入

まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。(*)

と、本来は信の反対は不信なのであるが、「信」の反対語を「疑」であるとされた示唆によるものであろう。信とは阿弥陀如来から賜るものであり、それを疑いの蓋で遮蔽していることが自力であるとし、法然聖人の信疑決判を、他力(本願力)と自力の対判によって浄土真宗の本願力回向の宗義を明かそうとされたのである。

ともあれ、お聖教をあれこれ拝読することは楽しいことである。もったいないこっちゃな。

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