深川和上の「仏力を談ず」の中の峻諦和上の語録。
人は昔そこに生きていた。
全く二本足の動物として堂々と生きていた。
隣に人が生きるようになってうるさくなった。
協定が生まれた。
そして段々増えたら道徳を守らなければならなくなった。
段々増えたら法律が出来た。
そして段々人間がおかしくなって来た。
自己を取り巻く知識の外延が拡大すると、二本足で大地の上に立っているという、人間の根源を忘れてしまう。荘子は、
有機械者 必有機事、有機事者必有機心 (*)
機械あれば必ず機事あり、機事あれば必ず機心あり。
と、いう。
機は和語では、カラクリともいうが、カラクリとカラクリに操られた心に騙されているのが現代人であろう。
あらゆる煩悩の寂滅する、夕日の沈む西の彼方にある浄土という概念を喪失してから、人間はおかしくなって来たのかもと思っていたりする。
浄土真宗というご法義は、生きることに意味があると同じように、死ぬことにも意味を見出してきた生死(しょうじ)を超える道であり、それは御開山の示された「往生極楽のみち」(歎異抄二条)であった。
「本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや」(歎異抄十二条)とあるのを、一部の真宗坊主が悪用して学文を否定しようとする輩がいる。封建時代のバイブルである論語の「由らしむべし知らしむべからず」を想起しているのであろう。もっとも門徒は坊主が知っている程度には浄土真宗の綱格を理解してる(笑
ともあれ、学問とは、学んで疑いあり、疑いて後に問いありであるから、まともに自らの生死(輪廻:永劫回帰)を考察しようとするなら、大疑団をもって、いわゆる、お聖教の論理にひたることも可であろう。ひたすら、なんまんだぶを称える、愚者になるための学文というものもあるのである。
坊主を育てるのは門徒の仕事でもあるから、勉強しない坊主にあれこれ質問攻めにすることも、御開山のご法義の門徒の役割であろう。悪口(あっく)だから、なぜか嫌われるけど(笑
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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