深川林遊和上の『仏力を談ず』に脚注を付けていて、
端午の節句に、やれ歌え騒げといっておる時は忘れてるんです。親さまはそれを忘れておられないのです。だって私をとり込んでおる親さまですよ。
の、一文から、田原のおその同行の逸話を思い出したので脚注に記してみた。
田原のおその同行に以下のようなエピソードがある。おそのが本山へ参詣して茶所でご法義談義をしていた。坊さんというのはお節介なもので、そのおそのの肩をたたき、「ここはご本山じゃぞ、うかうかとお喋りしていると無常の風は後ろよりくるぞ」と大声で言った。おそのは後ろを振り向きながら、「親さまにご油断があろうかな」と返答したそうである。見事なお領解である。たとえ私が忘れていても、私をとりこんで忘れない親さまがいらっしゃるのであった。なんまんだぶ (*)
他力というご法義は、ともすれば無力と混同され、わたくしの努力という面を軽く見る傾向があるのだが、往生ほどの「後生の一大事」、どうして無力でかなうことがあろうや。
「親さまにご油断があろうかな」と、腹落ちするまで聴聞するのが、ご当流の勧化であった。三願転入の求道主義者は、仏願の正起を曲解するがゆえにこの意がわからないのである。
全部こちらが用意したから、あなたは何にもしなくていいのですよ、という教説を、努力して聞き学ぶのが「仏法は聴聞に極まる」という言葉の意味である。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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