ネットで拾った言葉。
現今の仏教研究は、仏教が本来もつ宗教性、すなわち、信心や修行、覚(さと)りや救い、祈祷や修法、現世利益や死者供養、といった行動や体験と切り離して進められているが、はたしてそれでよいのであろうか。そのような現状を評して、「仏教学ますます盛んにして、仏教いよいよ滅ぶ」と揶揄(やゆ)されるのである。
浄土真宗とは、往生浄土の真宗という意味だが、この往生浄土ということを抜きにしては、布教使がどのよう語ろうとも空言であろう。巷間の真宗の坊さんの中には、死後に浄土に生まれるなどという非科学的なことは現代では通じませんという輩までいる。
弘法大師空海(774~835)は、「生生生生暗生始 死死死死冥死終(生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し)」『秘藏寶鑰』といわれた。生に暗く死に冥いのが凡夫である。何のために生まれて何の為に死ぬのか解らずに、一生を空しく過ごし、やがて冥く死んでいくのである。
浄土真宗は、その冥く空しい死に対して、死ぬことの意義を提示する一面もあるのである。死を往生として浄土へ生まれることであるというのである。死に対する真摯で深い考察と洞察から浄土教という仏教は生まれたのであった。
1000年ほど前の日本で、源信和尚(942-1017)は往生浄土の要文を集めて『往生要集』という書物を著された。その中で、天台大師智顗の撰とされる『淨土十疑論』を引き、
ゆゑに『十疑』にいはく、「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。 すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから纏縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。 これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上}余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。
知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。p.929
『歎異抄』四条に、
浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。(*)
と、あるのと同じ趣旨である。
なんまんだぶを称えて、浄土に往生しようということは、速やかに仏のさとりを開いて、生死を繰り返し苦悩している衆生をさとりの世界へ誘うためであった。自分が救う者になることとは「自利によるがゆゑにすなはちよく利他す。これ自利することあたはずしてよく利他するにあらずと知るべしとなり。」七祖p153なのである。御開山が「還相の利益は利他の正意を顕すなり。」p.355とされる所以であった。ありがたいこっちゃ。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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2016年11月5日 8:44 AM
しみじみ味わわせていただきます。死んだら弥陀の浄土に往生できる、これを信じて念仏称えるだけです。しかも「たのむ・たすけたまえ」の心で。なんまんだぶ ありがたい。
2016年11月5日 9:01 PM
御開山の示して下さるご法義は、
浄土真宗というご法義は、生きることに意味があると同じように、死ぬことにも意味を見出してきた生死(しょうじ)を超える道であり、それは御開山の示された「往生極楽のみち」(歎異抄二条)であった。
でしたね。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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