『浄土真宗辞典』の仏願の生起本末の項には、
阿弥陀仏の名号のいわれ。仏願の生起とは、阿弥陀仏が本願を起こした理由、すなわち自らの力では決して迷いの世界より出ることのできない衆生を救うために、本願が起こされたことをいう。
仏願の本末とは、仏願の因果をいう意で、法蔵菩薩の発願修行を本(因)といい、その願行が満足しさとりを成就し、名号となって十方衆生を済度しつつあることを末(果)という。
と「名号のいわれ」とある。
最近の浄土真宗の坊さんの法話では、「信心正因」のドグマに幻惑されて、仏願の生起本末の語を自覚の意味の信心として説くのだが、行なき信は観念の遊戯に陥っているのかと思ふことがある。仏教とは行じて証すという「教行証」のご法義であり、行のない信のみの仏教はあり得ないのである。
ともあれ、WikiArcの、「仏願の生起本末」の項に追記してみた。
→「仏願の生起本末」
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
2017年10月22日 12:08 PM
こんにちは。
林遊先生、サイトの管理ご苦労様です。
先生のご苦労のお陰でいつでもどこででも
尊いお救いに出遇う事が出来ます。
大変、有難い事です。有難うございます。
ところで、
御文章 (五帖) で「末代無智」→知
となっておりましたのでお伝えいたします。
2017年10月22日 12:12 PM
そうですね
お念仏の無い信心は無いと思います。
また、信心の無いお念仏では空っぽであり本物ではないと
感じます。
五劫思惟の苗代に 兆載永劫の代をして
一念帰命の種おろし、雑行雑修の草を取り
年々相続の水流し、往生の秋になりぬれば
この実、穫るこそ うれしけれ
この身、摂るこそ、うれしけれ
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
2017年10月24日 10:01 PM
先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし、といいますから先生はよして下さい(笑
お示しの末代無智の表題は変更しました。ありがとうです。
梯實圓和上は、
行の無い信は観念の遊戯であり、信の無い行は不安の叫びである。
と、仰ってましたが行信というのは大切ですね。
お田植え歌は、年寄りが口ずさんでいました。
苗代の代(しろ)と兆載永劫の代(しろ)をかけて、衆生往生の願行の代わりに兆載永劫にご苦労なさったという意ですね。ありがたいことです。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ