真宗大谷派 西覚寺さんがネットで提供されている、山邊習學、赤沼智善共著の「教行信証講義」を自分の勉強用にUP中。元々s-jisiで書かれた文章なのでutfの漢字に当て嵌めるのが苦戦中(笑
ともあれ、明治の西欧文明を取り入れる文明開化を経て、大正デモクラシーの時代の雰囲気からか漢文を《言教〈おしえ〉》などのように和語で読んでいるのは、時代の雰囲気を感じさせて面白い。大正三年に記述されたものであるから100年程前の文章である。
時代の制約の為か、御開山の境位と非常に近い幸西成覚房の教学を誤解している点もあるのだが、本文はおしなべて正確に御開山の意図を捉えていると思ふ。(ツッコミは暇が有ったら脚注に記すかも知れない)
飽きっぽいので、最後までUPできるかどうか判らないのだが諸兄のツッコミを期待ではある。
学問とは、学んで後に疑いあり、疑いて後に問いありというごとく問いのない学びはないのであった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
« Prev:その籠を水につけよ おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。:Next »
2018年7月13日 9:54 AM
合掌
約百年前の文章をありがとうございます。
どれだけ理解できたかは分かりませんが、幅がそれなりに広がったようで嬉しいです。
なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたい
2018年7月15日 4:24 PM
昔の門徒は、坊さんの説く言葉の意味や概念を理解するのに苦労してました。
家のじいさんも、こういう言葉を聴いたんじゃが、何処の誰がいうたんにゃろ、と悩んでいました。
幸いに、現代ではネットを通じて根拠や出拠を求めることが可能ですが、その一端になればと在野の一門徒ですが、誰でもが根拠にアクセスできるようにネットで資料のUPを心がけています。
もちろん、
真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。
という報謝業(御恩報謝のいとなみ) なのですが、本来、攻撃的な性格にあいまって林遊は口が悪いのですが、口の四悪である妄語、綺語、悪口、両舌の、妄語と綺語と両舌には気をつけているつもりです。
ただ、僧であることを唯一のアイディンティティとする坊さんからは、門徒のくせにという陰口があったりします。面と向かって言えやと思ふ(笑
ともあれ、阿弥陀さまは私の生き方や理解や知識や心の持ち方を問題にせず、本願を至心に信楽して我が国に生まれると欲(おもうて)、我が名である〔なんまんだぶ〕を称えよというのが御開山のお示しでした。ありがたいこっちゃ。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ