fbより転送
林遊は、御開山の説いて下さる、なんまんだぶの法に関心があり、人間親鸞としての御開山の行状にはあまり関心がない。
(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
というのが御開山のお示しの簡単なご法義であるのに、死の帰する浄土を説かずに「こころ」や「いのち」の論理を振り回す坊さんに対抗する為に少しく教義を学ぶこともある(笑
で、あるところで突然に、
「我が三尊は塵沙の界を化す 日域は大乗の相応の地なり」
という文を出した高田派の坊さんがいたので、脊髄反射で『恵信尼消息』の「聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ」の「聖徳太子の文を結びて」のwikiarcの脚注に追記してみた。
ある意味では現代の我々と違う精神世界を描いているのだが、浮遊する空しい言葉ではなく、「如是我聞」という、言葉が言葉としての活力を持っていたのだろうと想像してみる。なんまんだぶという言葉による仏教の済度とは、ありがたいこっちゃ。
なんなんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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