浄土真宗の研究所長である満井秀城氏は、『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』の論述で、
「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」は、「生死即涅槃」の道理であり、宗祖親鸞聖人に「証知生死即涅槃」(正信偈)として明確な出拠がある。これは『往生論註』利行満足章に出る語で、そこでは、「無碍」の釈義として『華厳経』と関連させながら説明され、讃嘆門で釈される「尽十方無碍光如来」と首尾一貫した説示となっている。つまり、この「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」の部分については、議論の余地はまったくない。しかし、注意すべき点があり、多くの誤解が起こっているのも確かである。➡本文へリンク
と、述べている。
「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」は、「生死即涅槃」の道理であり
とするのだが、この「生死即涅槃(生死すなはちこれ涅槃)」は『論註』の以下の文である。
「道」とは無礙道なり。『経』(華厳経・意)にのたまはく、「十方の無礙人、一道より生死を出づ」と。「一道」とは一無礙道なり。「無礙」とは、いはく、生死すなはちこれ涅槃と知るなり。かくのごとき等の入不二の法門は、無礙の相なり。(論註 P.155)
『論註』のこの文は、非常に難解なのだが、以下にこの文の語句のWikiArcへリンクしておいた。
➡「道」
➡「生死即涅槃」
➡「煩悩即菩提」
➡「無礙道」
➡「十方の無礙人」
➡「無礙」
➡「入不二の法門」
➡「つばめ堂通信の『維摩経』入不二法門品」
ともあれ浄土真宗に関心の無い若い人に理解できるような「新作似非領解文」だそうだが、満井秀城氏が提示した「生死すなはちこれ涅槃」とは、
無礙」とは、いはく、生死すなはちこれ涅槃と知るなり。かくのごとき等の入不二の法門は、無礙の相なり。
とあるように門主が示した「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」を理解するためには『維摩経』の「入不二の法門」を学ぶ必要があるらしい、「智愚の毒」に毒された莫迦(仏教語)である。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
« Prev:『教行証文類』というのは凄く難しい 曲学阿世:Next »
2024年2月4日 9:59 PM
現代の人皆に受け入れやすくする為に、現代語でわかりやすい表現を使われて新作領解文は作られたそうです。
なのに、そこまでして苦しい難しい言い訳で解説なさっておられるのが新作領解文ならば、お作りにならなければ良かったものを。全力の知識でもって無理矢理に正当化せねばならないような偏屈なしろものをどうして私のような知識の無い門徒が、それを受けて日頃の生活の中で口にしていけるのでしょうか。とかく上に立つお方は従わせるのがお好きなようで門主様も取り巻きもそのようなお方と見えますが、つまらぬ方々、袈裟の男性は特に頼りになりません。如来様に頼って生きているのが1番心強く、それを教えて下さった林遊さんに深く感謝しております。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
2024年2月6日 1:24 AM
浄土門は彼土得証(ひど-とくしょう)の、この世ではなく浄土で証(さとり)を得る法門であり二元論の立場であり、聖道門は此土入聖(しど-にっしょう)の、この土で聖になる教えで、いわば一元論の教えです。
御開山はそれを、
しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。(信巻 209)
とされておられました。
御開山を「不二絶対の一元的立場」とみる『新纂浄土宗大辞典』には少しく云いたいこともあるのですが、二元論と一元論の考察は参考になります。
➡「相対的二元論・絶対的一元論」
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E7%9A%84%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96%E3%83%BB%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E7%9A%84%E4%B8%80%E5%85%83%E8%AB%96
ようするに「私の 煩悩と 仏のさとりは 本来一つゆえ」といふ提唱は、聖道門の一元論の立場であり、此土と彼土の二元論の立場からの逸脱でした。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ