浄土真宗とはなんまんだぶつのご法義である。それを少しく親鸞聖人の『教行証文類』教巻から窺ってみよう。
それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。「顕浄土真実教文類P.135」
「現代語」
さて真実の教を顕すならば、それは『無量寿経』である。
この『無量寿経』が明かそうとされている法義を要約すると、まず阿弥陀仏は、万人を平等に救おうという、諸仏に超え勝れた誓願をおこし、わけても愚かな凡夫を哀れんで、仏のみがしろしめすさとりの蔵を開いて、その無量の徳を南無阿弥陀仏という名号におさめて、施されていることが説かれています。この阿弥陀仏のこころを承けて、この世に出現された釈尊は、さまざまな経を説いて未熟なものを導かれましたが、その本意は、一切の衆生に阿弥陀仏の本願のいわれを聞かせて、往生させ、成仏させるという、真実の利益を恵むために、この経を説かれたといわれています。
ですからこの経典は、阿弥陀如来の本願(第十八願)のいわれを説くことを肝要としている経であり、それはすなわち南無阿弥陀仏が経の本体であるということを顕しています。
ここは、『無量寿経』で、釈尊が五徳瑞現といわれる素晴らしいお姿であることに気付いた阿難の問いからはじまる一段である。その問いに応えられて釈尊出世の本懐を説かれるのが上記の「教巻」の一段である。
ここで、「群萌を拯ひ恵むに真実の利」といわれる真実の利とは『大無量寿経』の結論である流通分の一念である。これを行の一念という。衆生をどのようにして救うかといえば、真実の利である名号によって救うのである。これは「行巻」の行一念釈によって判る。なお、『無量寿経』が真実であるという証明は『無量寿経』と異訳の『無量寿如来会』、『平等覚経』を引文され、他の経典は引文されていない。なぜなら『無量寿経』が真実であるという証明に他の経典を依用するならば、その経典の方が真実になってしまうからである。あくまで『無量寿経』の真実であることは『無量寿経』によって証明されているのである。
行一念釈
【73】
おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。
【74】 ゆゑに『大本』(大経・下)にのたまはく、「仏弥勒に語りたまはく、〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」と。{以上} 『顕浄土真実行文類』[行一念釈]P.187
「現代語」
(73)およそ往相回向の行信に関して、行にも一念ということが説かれており、また信にも一念ということが説かれています。行の一念とは、称名の数の最少単位である一声のところで、阿弥陀仏が選択された易行の称名に込められている究極の意義を顕そうとする教説です。(74) だから『無量寿経』に説かれている。
「釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<もし、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜び、わずか一声念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである>」
釈尊が出世の本懐として真実の利をもって衆生を救済していこうという真実の利とは、この行一念釋によって、流通分の「乃至一念」(すなわち一念に至るまで)である。この一念は南無阿弥陀仏の一声の一念であり、この無上の功徳によって衆生を救済していくのが名号摂化の浄土真宗という法義である。
さて、この無上の功徳といわれる無上という言葉だが、少しく梯和上の講義録から引用してみる。『教行証文類』「行一念釋」より
[言く。「仏弥勒に語りたまはく。それ彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんこと有らむ、當に知るべし、此の人は大利を得と為す。則ち是無上の功徳を具足するなり。」
とあります。
これは南無阿弥陀仏という一声の念仏が無上の功徳だというのです。
これは大変な言葉です。さてこの無上功徳というのはどういう事かという事は、この後におっしゃいます。「大利と言うは、小利に対せるの言葉なり。無上と言うは、有上に対せるの言葉なり。」
無上功徳というのは、この上が無いという事です。上が無いという事は上が有るという事に対して上が無いというのです。
だから無上という言葉は有上に対するのだ。小利有上の功徳と大利無上の功徳を此処でお釈迦様はキチッと対判しておられるのだと言うのです。
それはどういう事かというと「信(まこと)に知ぬ、大利無上は、一乗真実の利益なり。小利有上は則是八万四千の假門なり。」
と言うのです。
そうすると自力の行はどんな行であってもそれは小利有上の行である。それに対してお念仏は一声・一声が大利無上の功徳であるという事を顕すのです。
そうすると無上というのです、これは大変な事をおっしゃっている訳です。
お念仏と仏様どっちが上かといわれたら皆さんはどう答えますか?、お浄土と念仏どちらが上かと聞かれたら、どう答えますか?。
これは全く等しいのです。そうでなければ、お念仏より上のものがあったならば有上です。
お念仏よりも仏様の方が上だったらお念仏は有上功徳になります。お念仏よりもお浄土の方が上だったらお念仏は有上になります。
という事はお念仏とお浄土と仏様と全く同じ功徳であるという事です。仏様も無上の功徳を持つ。仏様の事を無上士と言うでしょう。
お浄土も無上の功徳を持っている。そしてお念仏も無上の功徳を持っている、という事は私の前に現れている阿弥陀仏がお念仏なのだ。私の前に届いているお浄土がお念仏なのだよという事です。
お念仏は私の前に届いた仏様であり、私の前に届いたお浄土なのです。
浄土が念仏となって私の上に顕現しているのだ。仏様は念仏となって私の上に実現しているのだ。
だから念仏は大利無上というのだという事です。だからお念仏を頂いているという事が仏様を頂いている事です、阿弥陀仏のお徳の全体を頂いている事であり、お浄土の徳の全てを頂いている事です。
法然聖人のお言葉に、
たゞ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、こゑについて決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。
と、あるように、なんまんだぶと称えなんまんだぶと聞こえて下さるそのままが、浄土がそして阿弥陀如来が林遊の上に顕現して下さっているのである。
こゑについて決定往生のおもひをなすべし。なんまんだぶ、なんまんだぶ…
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