みみず

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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家内が買い物から帰ってきて

ねえ、大きいミミズが死んでるよ、
というので玄関の外まで見に行った。

コンクリートの上でどばみみずが死んでいるので、何でこんな庭の土から離れた所でミミズが死んでいるのかとあれこれ。
昨日の雨でミミズが引越しの方向を間違えたとか、鳥が咥えていたのを落としたとかミミズを見ながらの雑談。(暇ですねえ 笑い)

ふと、お聴聞で聴いた

涅槃絵に みみずは嘆く 術(すべ)知らず

という句を思い出した。

涅槃絵とは世尊がお亡くなりになるところを描写した絵で、世尊の母親である摩耶夫人から天人、羅漢、あらゆる動物や鳥、手足の無い蛇やミミズまで参集して大聖世尊がお亡くなりになることを嘆いている。

しかしミミズは世尊が今お亡くなりになるというのに、地団太踏む足も合掌する手もない。
そんなミミズの為にも、阿弥陀様は、なんまんだぶつと声になって聞こえて下さる仏様になったのだ、という話だった。

異訳大経の「蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん」*のお示しだったな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

馬鹿は死ななきゃなおらない

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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馬鹿は死ななきゃ治らない、とか言いますが、煩悩は死なにゃあ消えん。
死なにゃあならんほどの、どうしようもない煩悩を抱えて、死ぬ間際まで、煩悩の火を燃やしながら生きて行かざるを得ないのが林遊のような存在だ。
 
 「生きている限りは煩悩具足の凡夫でしかあり得ない。浄土に往生しなければ仏に成れないということは、煩悩具足であるという事の慚愧です。
 死んでからの話をして何になるかではない、死ななければ治らないほどの煩悩を持っていることを慚愧していくのが浄土の法門です。
それを離れたら浄土教ではありません。」と、聴かせて下さった和上様がおられた。
 
このような慚愧が、自らの内に「真/信」を求めず、浄土を「真/信」とする御法義だな。
死なにゃあ治らんほどの、どうしようもない煩悩を種として、至心 信楽 欲生我国と、摂取不捨のなんまんだぶつを称えながら生まれて来い、というのが浄土を真実とするこの御法義だ。
 
時々、我何をなすべきかと、我何を信ずべきかをごっちゃにして浄土真宗の御法義を語る僧俗がいるが、「信心決定後の生活が往生であり、その帰着点が成仏である」と言われる方に多そうだ (笑い
 
 煩悩よ 何かつかまにゃ さみしいか
 
なんまんだぶつが出来たから、我があんずることはない。
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