深川和上はよく、今が目的と仰る。
阿弥陀様は私になんまんだぶつを称えさせて浄土へ迎えようと誓われました。
それならば、こちらは訳が解からずとも念仏を称えることが私の仏道です。今はもう弥陀の目的を生きているだけなのです。
「我々の宗教の目的は何か」ではなく、今が目的なのです。すでに弥陀の目的の中だった、これが大切です。すぐ「何のために…」と問う人がいるけれど、それは下の下です。
子供が砂場で遊んでいます。砂山をこしらえたりトンネルを作ったり壊したりして遊んでいます。
壊すなら作らなければ良いのに、意味が無いのにと思うのは傍観者の論理。砂場で遊んでいる子供にとっては砂山を作ったり壊したりするのが目的なのです。
今まさに私の五体の上に、名号功徳が合掌礼拝という姿であらわれ、称名という姿があらわれているのです。やがて息がとまったら西方極楽への往生という事実があらわれ、大般涅槃をさとるという事実があらわれ、還相の菩薩としてはたらく事があらわれます。そのことが「今」決まっているのです。
有難いお示しではある。
今現在、私が弥陀の目的の中に居るのならば、今この娑婆世界で悠然としてなんまんだぶつを称えて遊んでいれば良いのではないか。
煩憂悩乱に泣いたり笑ったり苦しんだりしながら、ちょっぴり他者を思いやり、ほんの少しだけ、お念仏なさいませんかと人にお奨めする道もあるのだろうな。
う~ん、何が言いたいのかサッパリわからんな、まあいいや遊煩悩林現神通とあわて者の林遊の心配する事じゃないわな (笑い
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…
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