先日の勉強会で坊さんとの雑談。
浄土真宗では信心正因っていうけど、正因って因、つまり原因の事だよな。
「そう」
じゃさ、その信心に対する果は何よ。
「それはお浄土で仏さまになるってことやろ」
うん、そうだけど言いたいのは、信心というものに対応するものが何かという事を言いたいんだけどな。
「う~ん」
信心に対応するのは仏心じゃないのかな。
「仏心って仏の心の仏心?」
そう、果において仏心であるような信心が往生成仏という目覚めた仏に成るという正因でしょ。
「う~ん………」
今日の講義の唯信鈔文意で、
<「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。>
この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、ってあるけど、「この」は、如来の心を指しているので衆生の心じゃないんでしょ。
だったら信心というものは仏心であるわけでしょ。
如来の仏心が十方微塵世界の林遊に至って、林遊をブッダにするという話だよ。
だから、人間が仏に成るなんてとんでもない話だけど、仏心が林遊に至り届いてこの仏心が往生して即成仏する事は何の不思議も無い訳だろ。賜りたる信心ってこういう事でしょ。
「う~ん………」
いつも思うけど、坊さんは「信心正因」ってあまり言わない方がいいと思うな。
それよりも、お念仏しましょう、なんまんだぶを称えましょう。
これは阿弥陀如来が選択して下さった、本願に順じた業因ですから称えましょうねっていう宣伝をすべきだと林遊は思うな。
と、こんな事ばっかり言うから林遊さんは煙たがられるのね (笑
信心正因って?
林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート,
22
4月
2009
信心正因って? はコメントを受け付けていません