林遊は、業と輪廻の思想を抜きにして仏教を語っても、それは単なる世俗の生き方にしかならないと思うのだが、ちょっといい文章を紹介。
悪夢に泣く子供に母親が「夢ですよ」という場合、それは夢であるから目覚めなさいということである。
同様に業と輪廻--六道輪廻の思想も有情についての単なる存在判断ではない。
それは初めから終わりまで覚醒への呼びかけであり、呼びかけられた者にはこの命題は一つの当為であり命令であるはずであった。(しかし業や輪廻は今日では通常そのような仕方で理解されてはいない。)
だから業と輪廻は対象的に見られると、まったく生存の運命的必然性を強調する教義と考えられるであろう。
しかし、主体的には、それとは逆に解脱と自由のためのものである。
それはあたかもすべてのものがその色濃き印影をその物の背後に投げかけるときに、その物自身はかえってそれの正面の輪郭をくっきりと白日の下に浮き出させているようなものである。
業と輪廻の暗い論理の影絵には、それからの解放と超越の喜びが輝いている、他の一面がある。
業の理論はいわば跳躍版であって、宗教的実存は、一度はそれにしっかりと足をふまえることによって、つぎに身をおどらせて解脱と解放の自由に躍入する。
業と輪廻の思想は最初にそれを理論的にまとまった姿を与えたウパニシャッドの哲人(ヤージニャヴルクヤ)によって、すでにこのような内面に火花を持った概念に作り上げられていた。
ウパニシャッドを読む人は、この暗転する業と宿命の流れのなかから、ときどき一瞬解脱の光りがさっと輝き出るのを感じるであろう。
というのは業や輪廻の思想は、上述のようにただこの解脱の光に照らされたときだけ、それと知りうる人間存在の暗さであり、私と私を包む世界との根源的な運命的時間である。
だから輪廻を知ることは、ヤージニャヴルクヤのいうように、「蛇が自分のぬけがらを見るごとく」でなければならない。
流転や輪廻の世界は、ただそこからの解脱が同時にそれとともに強調されるときにだけ意味のある事実であり、解脱の光のもとでだけそれと見られうるような事実なのである。
だからこの哲人は業についての自分の思索を秘教的なものと考えていた。
それは「私と汝が手を重ね合い、ただ二人だけで語り合うべき」性質のものであった。
-中略-
このような業と輪廻の肯定と否定とに対して、仏陀の立場はいわばそこに親鸞の横超(他力による横超)の次元に当たるものを切り拓くことによって、両者を止揚した中道の立場に立とうとするのである。
とにかく原始仏教にみなぎる解脱への激しい渇望は、業や輪廻の自覚なしには考えることができない。
その宿望は今や満たされた。
仏陀は「生は尽きた、梵行は修せられた、作すべきことはなされた。再びこの状態(輪廻の状態)に来たらない」と自覚して真の解脱に達し、彼の弟子達に「来たって見よ」と教える。
そうしてこの仏陀の立場に立つとき、実はそこで初めて業の世界、輪廻や転生が本当には何であったか--人間の生存の事実性において、何を意味していたかが判然と知られるのである。
あたかも眠りより目覚めた者(覚者ー仏陀)が、初めて眠りの何であったかを知り、また眠っている者のところに行ってその眠りから彼を覚醒させることができるように、業の真相の理解者は業を超えることによってこれをその根底から知悉し、そうして再びこれにつながれている他者に立ち向かって彼をその繋縛から解放し、相ともに他者の超脱と覚醒へのための実践に進ましめる事が可能となる。
『親鸞と現代 武内義範』より
業と輪廻
林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート,
03
6月
2009
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