親鸞聖人はご自身の主著の名前を『教行証文類』と呼ばれた。
つまり、教(おしえ)、行(おこない)、証(あかし)という三本で浄土真宗という法義を示された。これを三法立題という。
教とは釈尊出世の本懐といわれる大無量寿経(以下大経)に説かれる教えである。
これを教巻に
それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。(教巻)
と、「本願為宗 名号為体」であると顕されている。なお、「仏の名号をもつて経の体となす」は、『往生論註』からの引文である。
浄土真宗の門徒なら朝夕に読誦する『正信念仏偈』に、
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(すべての如来が世間に出現されるのは、ただ阿弥陀仏の本願を説くためであった。)
と讃嘆される所以である。
行とは南無阿弥陀仏と称える称名の事であり、林遊に、なんまんだぶと口に称えられている称名のことである。
「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。」(行巻)
石泉和上は『柴門玄話』の中で、この行である念仏を、
初組(龍樹)は阿弥陀仏本願如是等といい、北天(天親)等(曇鸞・道綽)は如実修行といい、終南(善導)は正定業といい、横川(源信)は別発一願の念仏とし、黒谷(法然)は選択本願の念仏といい、我大谷(親鸞)は智慧の念仏ともまた真宗念仏とものたまえり。
と示されているように、七祖伝灯の口称の大行である。
証はさとりとも訓ずるように、教と行に依って感得される仏の覚りの証明である。
つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。
また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。
浄土真宗で弥陀同体の仏に成るといわれるのは、この文が出拠である。仏教の目的は成仏であり阿弥陀如来と同じ如来になるといわれている。
親鸞聖人が、大経を釈尊出世の本懐の教といわれるゆえんは、釈尊が大経を説く契機になった阿難の問いから始る。
釈尊が常に無い尊いお姿であったので、それを見た阿難が、どうして今日の世尊はそのように尊いのでしょうかという問いに、
「如来無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。」(大経)
現代語訳(如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。)
と答えられ、法蔵という菩薩が、衆生(生きとし生けるもので人間には限定されない)を仏にする為、無量の願いとそれを成就する為の修行を成し遂げた、と説かれ随自意の大経が開示される。
そして、その説かれた真実の利とは、まさに南無阿弥陀仏という称念であるというのが
「仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。」
現代語訳:釈尊が釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。
の南無阿弥陀仏を称える一声一念であった。
これこそ、心の持ち方や生き方を問わない万人平等の往生成仏の教説であり、大乗仏教の至極であった。
近年、ありもしない自己の信心に惑い念仏の行に迷った挙句、口に称えられる、なんまんだぶつを軽視する風潮が強い。
親鸞聖人の仰るとおり「安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。」である。