言葉の話

林遊@なんまんだぶつ Post in 管窺録
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浄土真宗が難しいという事のひとつに、使われている言葉の概念が通常の言葉の概念と違う事が挙げられる。

例えば他力という言葉だが、これは仏の方から衆生を見ていう言葉であって仏が他者を救済する利他力の意味である。決して他者依存という意味ではないという事に注意しなければならない。

たとえば、愚禿鈔 (下)という書物には、善導大師の二河の譬喩を解説する中で、

また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。

と示され

我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。

と示されているが、これは仏を中心とした世界観を表現する意味であって、自己を中心として描き出している世界の言葉ではない。

親鸞聖人の主著『教行証文類』は、古来から難しい難しいと言われているが、このような仏を中心とした世界を顕そうとされている書物であるから難解なのである。

いわゆる宗教の世界を顕す「宗教言語」であるから、既存の概念で把握しようとしても理解不能に陥る 。

梯和上が、この『教行証文類』は、親鸞聖人が他者に解かって貰おうとして書いた書物ではありません。仏祖の前でご自分のお領解を述べていらっしゃる書です、だから難解です、と仰っていた。

じゃ止めとこ、とも思うのだが、林遊の学びの為に少しずつ読んでいこうと思ふ。

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