浄土真宗の御法義は他力にうちまかせる御法義だが、なかなか判りにくい。で、ちょっといい話を読んだのでUP。
途中に宇曽川という川があって川上で夕立でもあったのか増水しています。
橋のある街道すじまで廻つて帰ると一里か、それ以上も廻りみちになります。
和上『これはアカン、仕方がない、廻り途をしよう。』
と云われますが、若者は承知しません。
和上も「それもそうだ」というわけで、着物をぬいでハダカになられました。
若者は和上の手をひいて、川を渡りはじめましたが、案外水は深く、川のマン中ほどまでくると、スネから腰、腰から胸と、次第に深くなって、どうかすると、年老りの和上は足をとられそうです。
和上「オイ、これはアカン、流されそうじやたすけてくれョ。』
と若者の腰にすがられる。
若者「老僧さん、アカンアカン。そんなに抱きつかれては私が歩けん、老僧さん離しておくれ。」
和上『無茶云うな、手を離したらワシは流されるやなないかー』
若者「でも、そんなにシガミつかれたんでは私も流される。手を離しておくれ。」
川の流のマン中で、大そうどうであります。しばらくたって、和上は、若者の腰から手を離されたが、和上が手を離されるなり、若者がしっかりと和上の手をつかんで、引きずるようにして向うの岸にわたりました。
引きずられながら、和上の口からはお念仏がとめどもなく流れ出てまいります。やがて、対岸につくと
和上『お前まあ、そこへすわれ。』
若者「もう日もくれますから、早く着物をきて帰りましよう。」
和上「イヤ、とにかくすわつてくれ、ワシはお前に礼を云わねはならぬ。是非ともお前に聞いてもらいたいことがある』
若者を無理に坐らせて、川の土手の上で、ハダカのままでのお話であります。
和上『お前、ようワシを渡してくれた。イヤそれよりも、ワシに大きな味わいをくれたでそのお礼を云わねばならぬ。さっき、お前が川のマン中でワシに手をはなせというた、あのときの、ワシの胸のうちはどうだったろう。
ふだんは和上さん、老僧さんといたわり、うやもうてくれるが、イヨイヨとなると、背に腹かえられぬ、自分だけ助かったらよいと思うて、ワシに手を離せという、ヒドイ奴じや」と思うと煮えかえるようだつた。
しかし考えて見れぱ、ワシは老さき短かい老僧、お前は元気な若者じや、連れて死んでもすまんと思うて手を離すやいなや、お前がしっかりワシの手をつかまえて渡してくれた。』
『ワシがいつも云うておるが、蓮如さまが仰せられる「雑行雑修自力のこころをふりすてよ」との御教化はここの味わいじゃ。よう聞いてくれよ』
『お名号をつかまえ、お名号につかまって 助かろうとする、そうしてお名号のおはたらきをさまたげて、自分は流れるのじゃ。わがハカライを離れたとき、阿彌陀如来はしっかりと、ワシをつかんでわたして下さるのじや。』
『お前はいま、身体にかけて、この味わいを見せてくれだが、 「雑行雑修のこころをふりすてよ」とは如来(おや)さまのお慈悲のありだけじやで、どうかここのところを頂いておくれや。」
宇曽川の土手の上で裸のま~の御教化であつたつたと伝えられております。
宏遠和上の裸のままの御教化。