救いというものを勘違いなさってるのじゃないかな。
ひょっとして、仏教の救済を金魚掬いの金魚のように思っているから解からなくなる。
仏教の目的は成仏であって、浄土真宗で救済という意味は悟りを得て目覚めたブッダになるという事意外にはないです。
救済の済は斉(等しい)と言う意味であってブッダと等しい者にする/なるという事が救済という言葉の意味でしょう。
そして、その悟りが開覚するのは往生後(死んでから)である、というのが浄土を真実とする宗教なんだね。
今現在に、迷いを超えたブッダになる事が<確定していること>を真宗では救いと呼ぶわけだ。
決してある日突然私の身の上に奇跡が起きたり異常な体験をする事ではないんだ。
一時、自分探しという事が流行ったけど、真宗では自分を探して下さっていたのは阿弥陀様なんだね。
曠劫以来、阿弥陀様から<汝>と呼びかけられていた事に気付くのが信でしょ。
自分探しで言えば<汝としての自己の発見>が浄土真宗の信です。
二河白道で言えば、
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉
現代語:
また、西の岸の上に人がいて、<そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。わたしがそなたを護ろう。水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな>
と呼び続けて下さっているのが阿弥陀様で、こちら側は<汝>として呼ばれている側です。
もっと具体的に行為で言えば、真宗の信は、なんまんだぶつを称える事です。
なんまんだぶつが私の口から称えられている事の驚きを信心という、と仰った方がおられましたが不安ならお念仏を称えてみましょう。
御開山は、
しかれば名(みな)を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。
http://wikidharma.org/4aebda9c2f43e
現代語:
こういうわけであるから、阿弥陀仏の名を称えるならば、その名号の徳用としてよく人びとのすべての無明を破り、よく人びとのすべての願いを満たしてくださいます。称名はすなわち、もっとも勝れた、真実にして微妙な徳をもった正定の行業です。正定業は、すなわち称名念仏です。念仏は、すなわち南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が、すなわち正念です。このように知るべきです。
http://wikidharma.org/4aebdaeec1442
と、仰いましたが、一切の無明を破し、我々の往生成仏の志願を満たして下さる名号です。
御開山はまた、
果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。
とも仰ってますね。
なんまんだぶ、なんまんだぶと称えると、私の耳に、大丈夫、大丈夫と聞こえてきます。
半自力/半他力と人に言われてもいいじゃないですか。人はいざ知らず、私の後生、往生成仏の一大事じゃないですか。
このご法義は名号摂化の御法義です。光明名号 摂化十方 但使信心求念と、光明名号の摂化が先でそれを受領したのが信心ですね。
一声のお念仏も無くて、ご信心に至る人はあり得ません。もしいるなら信機秘事の異安心です。
もちろん、私が称えたなんまんだぶつの功で救われるご法義ではなく、なんまんだぶつの謂われが私の心に届いてそれを受容した時に往生成仏が定まり、摂取不捨の利益を恵まれるのです。これが浄土真宗のご信心です。
その時に、自力で称えていたと思ったなんまんだぶつが、実は阿弥陀如来の曠劫以来の呼び声であった事に気付くのかもしれませんね。本当は称えられるなんまんだぶつには自力も他力もないのですが、自分の機執によって自力の念仏にしてしまってるのです。
信心に惑わずに、お念仏しましょうよ。私に用事がなくても阿弥陀様が用事がある称名ですよね。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ…
あるブログへの投稿 2(お節介だなあ)
林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート,
20
10月
2009
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