弥陀をたのむとは、向きをかえるなり

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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一蓮院秀存につかえていた広部信次郎が、つぎのような逸話をつたえております。
あるとき四、五人の同行が、一蓮院の役宅をたずねてきて、御本山に参詣した思い出に、浄土真宗のかなめをお聞かせいただきたいとお願いしたとき、一蓮院は、一同に、

「浄土真宗のかなめとは、ほかでもない、そのままのおたすけぞ」
といわれました。すると一人の同行が、

「それでは、このまんまでおたすけでござりまするか」
と念をおすと、師は、かぶりをふって、

「ちがう」
みなは驚いて、しばらく沈黙していましたが、また一人が顔をあげて、

「このまんまのおたすけでござりまするか」
とたずねました。しかし師は、またかぶりをふって、

「ちがう」
といったきり、お念仏をされます。皆はもうどう受けとっていいかわからなくなって、お互いに顔を見合わせていましたが、また一人が、

「おそれいりますが、もう一度お聞かせくださいませ.どうにも私どもにはわかりませぬ」
というと、師はまた一同に対して静かに、

「浄土真宗のおいわれとは、ほかでもない、そのままのおたすけぞ」

それを聞くなり、その人は、はっと頭をさげて、

「ありがとうござります。もったいのうござります」
といいながらお念仏いたしますと、一蓮院は、非常によろこばれて、

「お互いに、尊い御法縁にあわせてもらいましたのう。またお浄土であいましょうぞ」
といわれたそうです。

浄土真宗の法義を聞くというのは、ただ話を聞いて理解すればいいというものではありません。また、法話に感激して涙をながせばいいというものでもありません。
煩悩にまみれた日暮しのなかに、ただようている私に向って「そのままを助けるぞ」とおおせくださるみことばを、はからいなくうけいれて「私がおたすけにあずかる」と聞きひらかねば所詮がないのです。私のたすかることを聞くのが聴聞なのです。

梯實圓和上「妙好人のことば━わかりやすい名言名句」より。

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