高森親鸞会という浄土真宗を名乗る新興宗教の団体がある。 この団体は、かって本願寺派紅楳英顕氏との間で宿善について論争したことがある。 紅楳氏の「破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示して欲しいとの主張を、「真宗に善をすすめる文証などあろうはずがない」と言い換え、紅楳氏の主張を歪曲し非難した過去がある。「派外からの異説について」
その論争の中で真宗における善の勧めの根拠として高森親鸞会から提示されたのが「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」という七仏通誡偈であった。 この、七仏通誡偈をもって真宗に善の勧めがある、と高森親鸞会は主張するのである。
か くて、大上段に〝修善をすすめた文証など、あろうはずがない〟と、アッと驚く、タメゴローならぬ、外道よりも、あさましい放言をなさるのである。【本願寺なぜこたえぬ p138】
仏教で『七仏通戒偈』は、有名である。 すべての、仏教に共通した教えを、一言で喝破しているからだ。 「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」 〝もろもろの、悪をなすことなかれ、もろもろの、善をなして、心を浄くせよ、これが、諸仏の教えだ〟というのである。 本願寺サン、『七仏通戒偈』も、お忘れになったのか、と驚かされる。【本願寺なぜこたえぬ p138】
また、 「善因善果 悪因悪果 自因自果」の厳然たる因果の道理を知らされた者は、必ず「廃悪修善」の心が起きる。
高森親鸞会HP
と、主張し、「廃悪修善」を勧めていることは周知の事実である。 同様に、高森親鸞会では「善の勧めはなぜなのか」と自問し、
「十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。 要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。 実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。」
同HP
と主張している。 親鸞聖人には「願海真仮論」があるが、高森親鸞会では、この三願転入の論理を聖道門の自業自得の因果論によって解釈し、会員に善を勧め(主として人集め金集め)十八願直入の道を遮蔽しているのである。
十八願は阿弥陀如来の本意の願であり、十九願二十願は不本意の願である事は親鸞聖人の「願海真仮論」によって顕かである。何故に会員に阿弥陀如来の不本意の十九願二十願を勧め、ましてや六度万行(六波羅蜜)という法蔵菩薩の五劫兆歳永劫の修行を会員に策励するのであろうか。 本願寺派勧学梯實圓和上は自著『顕浄土方便化身土文類講讃』で以下のように述べられている。
真仮論の救済論的意義ー自業自得の救済論
阿弥陀仏の本願のなかに真実と方便を分判し、浄土三部経にも真実教と方便教があるといわれた親鸞聖人は、そのように真仮を分判しなければならないのは「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」るからであるといわれていた。逆にいえば、真仮を分判することによって、はじめて如来の救いの真相が明らかになるというのであった。
その意味で真仮論は、聖人の救済論の根幹にかかわることがらだったのである。 真仮論とは、浄土教を、さらに広くいえば仏教を、二つのタイブの救済観に分けることであった。
第一は、自業自得の因果論に立った救済観であり、それは論功行賞的な発想による救済観であった。 第二は、大悲の必然として救いが恵まれるとする自然法爾の救済観であって、それは医療に似た救済観であった。 自業自得の因果論に立脚した救済観というのは「誠疑讃」に
自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける
といわれているような、自力の行信因果をもって救済を考えていく思想をいう。
それは浄土教というよりも、むしろ仏教に一般的に共通した思考形態であったといえよう. 有名な七仏通誠の偈とよばれる詩句がある。
諸悪莫作(もろもろの悪は作すことなかれ)
衆善奉行(もろもろの善は奉行せよ)
自浄其意(自らその意を浄くす)
是諸仏教(これ諸仏の教えなり)
というのである。悪を廃して善を行じ、無明煩悩を断じて、自心を浄化し、安らかな涅槃の境地に至ることを教えるのが、すべての仏陀の教えであるというのである。
このように廃悪修善によって涅槃の果徳を実現しようとする自業自得の修道の因果論が、七仏通誠といわれるように、仏教理解の基本的な枠組みであった。 このような自業自得の因果論の延長線上に浄土教の救済を見るのが第一の立場であった。
法然聖人を論難した『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」によれば、諸行往生を認めない法然は『観経』等の浄土経典や、曇鸞、道綽、善導にも背く妄説をもって人々を誤るものであるといっている。 すなわち『観経』には、三福九品の諸行による凡聖の往生が説かれているが、彼等が往生するとき、仏はその先世の徳行の高下に応じて上々から下々に至る九品の階級を授けられていく、それが自業自得の道理の必然だからである。
たとえば帝王が天に代わって官を授くるのに賢愚の品に随い、功績に応ずるようなものである。しかるに専修のものは、下々の悪人が、上々の賢善者と倶に生ずるように主張しているが、「偏へに仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚痴の過」を犯していると非難している。
これは明らかに自業自得、廃悪修善の因果論をもって、法然教学を批判しているもので、『興福寺奏状』の起草者、解脱上人貞慶からみれば法然聖人の浄土教は、仏教の基本的な枠をはみ出した異端でしかなかったのである。 『顕浄土方便化身土文類講讃』(梯實圓著)P61~
高森親鸞会のHP「承元の法難」には何故か『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」が意図的に省かれている。
同HP
参考の為に意図的に省略された『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」の部分を提示しておく。→興福寺奏状
これは、前掲の梯實圓和上の説にもあるように、高森親鸞会の主張する「廃悪修善」「自業自得の因果論」にとって都合の悪いものであるから意図的に省いたのであろう。
承元の法難では『興福寺奏状』に説かれる論理によって、法然聖人の門弟四人の死罪、法然聖人と親鸞聖人など中心的な門弟七人が流罪に処さるという未曾有の念仏弾圧が行われた。 高森親鸞会では、同じような廃悪修善の因果論の論理によって、まさに法然・親鸞という両聖人が説かれた選択本願念仏という宗義を破壊し毀損しているとしか思えないのである。 親鸞聖人は、
西路を指授せしかども
自障障他せしほどに
曠劫以来もいたづらに
むなしくこそはすぎにけれ
と、自らが迷い人を惑わせることを自障障他と言われているが、高森親鸞会の講師の方々に言いたい。 自らが迷うなら、それこそ自らの属する高森親鸞会の信条である「自因自果」であるが、どうか他者である会員を惑わせないで頂きたい。
加筆:
興福寺奏状に直接、「七仏通誡偈」の文言はない。
しかし、親鸞聖人の『教行証文類』撰述の動機となったといわれる、嘉禄の念仏弾圧事件の端緒となった元仁元年の『延暦寺奏状』には、この「七仏通誡偈」を論拠として念仏弾圧を行った事は明白であろう。
浄土真宗の根本の願である十八願には善の勧めはない。
この、阿弥陀如来から信心を恵まれる事に善の勧めがないことを根拠にして、念仏往生のご法義を弾圧して してきたのが聖道門であり世俗の法であった。
親鸞会は、まさに念仏弾圧の元となった廃悪修善の「七仏通誡偈」の論理をもって自らの依って立つ教義としているのであろうか。
『本願寺なぜこたえぬ』(高森顕徹著)恥ずかしい書物である。
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