されば出離の志しいたりてふかかりしあひだ、もろもろの教法を信じて、もろもろの行業を修す。
およそ佛数おほしといへども、詮ずるところ戒定恵の三學をばすぎず。
いはゆる小乗の戒定恵、大乗の戒定恵、頓教の戒定恵、密数の戒定恵なり。
しかるにわがこの身は、戒行において一戒をもたもたず、禅定に於いて一もこれをえず、智恵に於いて断惑證果の正智をえず・・かなしきかなかなしきかな。いかがせんいかがせん。
ここにわがごときは、すでに戒定悪の三學のうつはものにあらず。この三學の外にわが心に相応する法門ありや。わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめもろもろの學者にとぶらひしに、をしゆる人もなく、しめすともがらもなし。
しかるあひだなげきなげき経蔵に入り、かなしみかなしみ聖教にむかひて、てづからみづからひらきてみしに、善導の『観経の疏』にいはく
「一心に専ら弥陀名号を念じ、行住座臥時節の久近を問はず、念々に捨てざる、是れを正定の業となづく、かの仏の願に順ずるが故に」
といふ文を見えて後、われらがごとき無知の身は、ひとへに此の文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念々不捨の称名を修して決定往生の業因にそなふべし。
ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく彌陀の弘願に順ぜり。順彼仏願故の文ふかくたましいにそみ、心にとどめたる也 (和語灯録)
なんまんだぶは、かの仏願に順ずるが故なんだよなあ。
法然聖人は、めちゃくちゃうれしかっただろうな。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ…
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