現代社会のこのような巨大な世俗化の出来事は、またそれ自身本質的には宗教的な性質をもっているのである。
人々がいろいろな擬似超越というものへ走るのも、超越という宗教的要求が、いつの世にも人間の心にあるという事実を物語っていると言えるだろう。
日本仏教の諸宗派のなかでは浄土真宗が、そういう世俗化の流れと今日でも闘っている珍しい例だとおもわれるが、その浄土真宗の現場においてさえ門信徒との法座の中で、
「<死にたくない>と繰り返す病人の前で、お念仏申せと言えなかった。言った方がよかったか」というような僧侶の意見があったことが報告されている(浄土真宗本願寺派『宗報』平成八年九月号)。
これが今日の浄土真宗の現場の正直な状況であるかもしれない。
しかし、これに対して浄土真宗が現代社会の中で実践されている極めて貴重な記録の一つとして、ある臨床医が書いたつぎのような文章がある。筆者は宮崎病院副院長の宮崎幸枝医師である。
●平成八年十二月十三日
病棟に入る。主任より報告を受け、真っ先にTさんのいる重症室へ。担当のAナースか「待っていました。早く指示を下さい」という目で私を見る。
耳介のチアノーゼだけが遠目にも鮮烈に視野に飛び込んでくる。Aさんが脈拍、呼吸、血圧、尿量と諳んじて言う数値はいずれも末期的な数ばかり。点滴へ、側管へと数種類を指示。
胃ガン摘出後四年を経てこの度肺へ転移。長いおつき合いのTさん。八四歳女性。
数日前のこと
「こんどは治らないかもしれないね」というと
「そう?」
と、か細いが、はっきりした声。そして
「やっぱり…」
という淋しげな表情。
「Tさん。たとえTさんがいま命終わったとしてもね、Tさんはこれでおしまいじゃないのよね。ビハーラで聞いたお話…」と仏様のお慈悲のお話をした。まだ症状は軽くゆっくりお話ができた。
今日、容態は一変した。厳しくせっぱつまった状況である。眉間の深い縦じわが苦痛を示し、不安そうな目を向ける。
「どこが苦しいですか?」
「ゼンブ!」
「何が一番不安ですか?」
「ゼンブ!」
聞くと即座にはね返すような返事。
先日の仏様のお話の続きが自然と私の口を動かしてはじまった。
「Tさん、お念仏はね。仏様が<私を頼りにしておくれ。必ずお浄土にあなたを迎えてお悟りの仏様にするよ>という仏様のお声なのよ。
お浄土があるよ。仏様と一緒にいるのだよって、今、仏様はTさんをだっこしてくださっているのよ。心配ないのよ」
「ウン」
「お浄土があってよかったね。私もTさんのあとから必ず往くからね。お念仏しましょう」
この時突然、Tさんの眉間のしわが消えた。そして満面の笑みがあらわれた。「ナマンダブツ」と称名。
「センセ、アリガトー」と言われる。よかった…と、その時傍らでびっくりすることが起こった。
今までベッドをはさんで向かい側Tさんの足許近くで聞いていたナースのAさんが突然大きい声で「Tさんよかったね」とTさんに近寄り言った。その目には涙が光っていた。彼女の感動が私にも伝わり、胸が熱くなる。
人間の、科学の限界である。三人三様の無力感の中に、知らず知らずのうちに仏語に頭が下がっていたのだろう。仏様の大きなお慈悲の前に、三人は裸のいのち三つをそこに並べていた。
『ようこそ』第9号、医療法人精光会宮崎病院、平成九年五月発行)
『蓮如のラディカリズム』大嶺顕著P45~
阿弥陀経には「倶会一処」とあるが、また倶(とも)に会える世界を持てるのはありがたいこっちゃな。
宮崎先生とは大昔に温泉津での深川和上の法話会の懇親会で一杯呑んだ事があったが、ありがたいお医者さんだな。
なんまんだだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ…
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