浄土真宗所依の『無量寿経』には衆生に対しての願が三つある。
いわゆる「設我得仏 十方衆生」と衆生を対象にした生因三願(浄土へ生まれさせる三つの願い)である。
衆生というのは人間に限らず、生きとし生けるものすべてを指し示す言葉だ。
その三願の中で阿弥陀如来(法蔵菩薩)の御本意の願というのが第十八願である。
(十八願) わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
仏教とは釈尊が人間存在の根底にある苦の原因を「生老病死」であると提示することから始まる。
人という存在は「死」という厳然たる事実の前には、どのような論理も経験も無力であり虚無への墜落を感じないわけにはいかない。
少しく「生きる」という命題を考えたことのある人の前に提示される深刻な問いであり疑問である。
浄土真宗ではこの「死」というあらゆるものを虚無に叩き込む命題に対して「往生」という答えを用意している。
それが前掲の十八願だ。
全ての存在を無に帰する「死」というものを「往生」、浄土へ生まれると思いなさいと『無量寿経』の十八願は告げる。
死ぬとしか思えない事象を「わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏し」ろと、阿弥陀如来は招喚する。
人間の造った虚妄の価値観に支配され、生と死という妄想に囚われた存在に対する呼びかけであり喚び声である。
さて、彼の浄土へ生まれる「いのち」であると思い取れといわれる条件は何であろうか。
「心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して」と、『無量寿経』の十八願は言う。
念仏である。なんまんだぶである。
仏語に虚妄はないが、ここで疑問が起きる。
はたして、口になんまんだぶと称えるだけの行為が阿弥陀如来の浄土へ生まれる為の価値を持つ因なのであろうか。
親鸞聖人は仰る。
「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり」、と。
(十七願) わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
ここで、ちょっと親鸞聖人に言いたい。
これは往因三願の衆生が浄土へ往生する願ではないじゃないですか、仏が仏に誓った願がどうして衆生が浄土へ往生する願になるのですか、と。
親鸞聖人は仰る。
お前は、自分の口で称えられるなんまんだぶに着目しているのだろう。
それは違う。
お前の口に称えられているなんまんだぶは仏が仏を讃嘆している行なのだよ。
凡夫や羅漢や菩薩が修行する「行」と全く価値が違う行をお前に与えるから「正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり」『尊号真像銘文』なんですよと仰る。
なんまんだぶの出所が違うのでした。
林遊の口に称えられているなんまんんだぶは、仏が為す仏の行であって仏作仏行である。
有り難し、という言葉があるが、kuzさんの婆ちゃんが、なんまんだぶ、あんがたいと常に仰っていたという事を聞くたび、私の人生に有る事がない名号が、仏となり浄土となって顕現して下さることに、有難いなあと嘆息する。
おねんぶつなさいませ。
で、家内に読んで聞かせたら、これ切り張りだらけで何が言いたいのと言われて凹んでいる
なんまんだぶのはなし
林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート,
12
11月
2009
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