最近は読んでないが昔は推理小説が好きでよく読んでいた。
なんらかの事件が起り、その解決へ向けて様々な伏線をまじえながら合理的に事件の解決を描いていくのが推理小説だ。
そして、最後に伏線でほのめかされていた事柄が一挙に解決され犯人が解かるという仕掛けになっている。
読者は最後に犯人が解かった時に、結論から本文に描かれていた伏線やエピソードの意味を理解する事が出来るのである。
『観経疏』という『観無量寿経』の注釈書がある。
『観無量寿経』とは、精神を統一して浄土と阿弥陀仏や菩薩たちを観想する観法が説かれ(定善)、さらに、精神を統一出来ない者には、その機根に応じて上・中・下の善(散善)を為すことを勧める経典である。
南無阿弥陀仏を称えることはその下品(げぼん)の者の為に説かれている。
下品下生にいたっては、五逆・十悪の「唯知作悪」(ただ悪を作す事のみを知る)の者に称名を勧められている。
いわば、『観無量寿経』では、南無阿弥陀仏を称する事は最低の者に与える行なのである。
しかし、不思議な事に『観無量寿経』の結論である、経典を末代へ流通する部分に至って、突然、「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。」といい「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名(南無阿弥陀仏)を持てとなり」と言われる。
ここに着目したのが善導大師であった。
いわば推理小説で結果が解かった時、その結果から小説に描かれた内容を逆観するのと同じように、結論から『観無量寿経』という経典に説かれている意義を再把握されたのであった。
まさに、御開山が「正信念仏偈」で善導独明仏正意(善導独り仏の正意をあきらかにせり)と讃嘆される由縁である。
善導大師は、「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす」「念観両宗」と言われた。
『観無量寿経』の表面は、観仏三昧を説いているようにみえるが、その底には念仏三昧を説いているのだ、と言われるのである。
つまり、観仏三昧が表に顕れている時は念仏三昧が隠され、念仏三昧が表に顕れている場合は観仏三昧は隠れるという事である。
UPした画像は、「ルビンの壷」といわれるもので、図に着目すれば地が消え、地に着目すれば図が消える。壷に着目すれば二つの顔は消え、顔に着目すれば壷は消える。
同じように、一見すれば聖道門の行が説かれているように見える『観無量寿経』だが、釈尊の真意はなんまんだぶを称えさせる事にあり「聖道門の行」は捨てる為に説かれている、と見られたのが法然聖人であり御開山であった。
また、御開山が経に隠顕を見るのは、このような善導大師の説示から示唆されたのであろう。