ある寺の住職が夕立にあったので急いで寺に帰ろうとした。
ところが急いで帰ろうとした為か、下駄の鼻緒が切れた。
困っていると門前の豆腐屋のかみさんがこれを見つけ、頭にかぶっていた手拭を引き裂き鼻緒をすげかえてくれた。
次の日、豆腐屋の前を住職が通るので、かみさんは昨日の礼を言ってくれると思ったが、何も言わずに通り過ぎる。
また次の日も、今度は店先に出て会釈するのだが礼を言わん。
その次の日には、
「この間は大降りの夕立でしたね」
と、話しかけるのだが住職は頷くだけで礼を言わない。
とうとう、あたまにきた豆腐屋のかみさんは、店に来る客たちに、
「今度きた坊主はろくでもない奴や。人に親切にしてもろても、礼も言わん」
こういう坊主を揶揄する噂はなぜか拡がっていく。
この噂はやがて住職の耳にも入ってくる。住職いわく、
「なんだ、豆腐屋のかみさんは、礼を言うて欲しかったのか。わしは一生忘れんつもりだったのじゃが」
因っている人を見て親切に手を貸すのは尊いことだ。しかし、親切をしたぞ、
という想いが心の中で頭を持ちあげ次第に育ってくる。
世俗の凡夫の善には根が生えている、善根といわれるのは、まさにこういう事をいうのだろう。
御開山は『教行証文類』の「信巻末」で長々と『涅槃経』を引文し、
父殺しの阿闍世(あじゃせ)の慙愧による「無根の信」について語っておられる。
なんまんだぶを称える念仏の行者には、善根にも、貪・瞋・痴の三毒煩悩にも、もう既に根がない、ということのお示しだな。
浄土真宗を標榜するある新興宗教団体では、善を奨めそれが宿善となると教えるそうだが、まるで阿弥陀如来と取引するような事を教えているのでアホである。
無根の信、それが、なんまんだぶの声になって林遊に届いているって、ちょっと感動するな。
悪を止める気持ちが起きた時、如来さまが泣きなさるさけ、わずかの善を為そうとした時は、如来さまの好きな事はしようとおもうさけ、と、思い取らせて下さることも御恩報謝なのかもなあ。
ありがたいこっちゃなあ、なんまんだぶ なんまんだぶ