林遊は豆と豆腐が大好きである。
特に水に漬けて置いた大豆を、醤油でカリカリになるまで煮詰めた硬い煮豆が好きなのだが、最近は歯がなくて食べられない(泣
豆腐は、土鍋に昆布を布いて、豆腐だけを入れる湯豆腐がいい。
熱燗でこれを肴に呑む酒は、酒の味を壊さないので格別である。
また、豆腐に醤油をかけて箸で細かく潰し、温かいご飯にかけて食べるのが好きなのだが、知らない人には時々怪訝な顔をされる。
そんな時は「最近は温かいご飯に、色んなものをトッピングして食べるのが流行っているそうですよ」と誤魔化している。
閑話休題
家の3000以上の聴聞をしたじいさんから聴いた話。
ある御法話で、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の話があった。
法話の途中で布教使が一人のばあちゃんに、
「おばば、摂取不捨ちゅう事が判ったか?」
「そら、ご院さん、豆が豆腐になったちゅう事ですがな」
「豆が豆腐に?、なんじゃそりゃ」
「あら、ご院さん知らんのですか。豆が豆腐になったら、もう二度と豆腐は豆には戻りませんがね」
昔は下手な布教使をぺしゃんこにする、恐ろしい門徒が沢山いたものである。
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
浄土和讃:「摂取してすてざれば」の摂取の左訓
「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。
摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」
の左訓、ひとたびとりて永く捨てぬなり、からの法話である。
林遊が豆腐を食べる時、嬉しそうににやにやしているのは、この法話を思い出している時だというのは内緒である(笑
極重悪人唯称仏
(極重の悪人はただ仏を称すべし)
我亦在彼摂取中
(われまたかの摂取のなかにあれども)
煩悩障眼雖不見
(煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども)
大悲無倦常照我
(大悲、倦きことなくしてつにわれを照らしたまふといへり)
現代語訳:
極重の悪人は、ただ仏の名を称えるほかに救われる道はない。
私もまた阿弥陀仏の光明に摂め取られているが、
煩悩に心の眼が遮られて、阿弥陀仏を拝見することはできない。
しかし阿弥陀仏の大悲は、かたときも目を離さずに私を見護っている。
なんまんだぶを称うれば、豆が豆腐になるそうな、ありがたいこっちゃナ。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
豆と豆腐
林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート,
06
2月
2010
豆と豆腐 はコメントを受け付けていません