至誠心釈

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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『教行証文類』は不思議な書物で70%くらいは経・論・釈の引文で成り立っている。

昔ネットで『教行証文類』は他者の文章を引用してあるだけだ、という非難を浴びた事があった。
たしかに他者の著作を剽窃して自己の著作のようにする某会の会長のような人もいるから、一見そのように思われるのも、むべなるかなであろう。

しかし、親鸞聖人は経・論・釈を引用ではなく引文しておられるのである。
経・論・釈の文章を引文して、その意味を全く変えてしまっておられるのであるから単なる引用ではない。
つまり、引文によって自己の領解を表現するという創作をやっておられるのである。
同じ文章でも文脈によって意味が変わるように、分引というやり方で縦横に経・論・釈引文されている。
だから『教行証文類』はめちゃくちゃ難しい書物であり、元の文章をどのように引文されているのかを見る事によって親鸞聖人のお示しを窺うのであるといわれている。

もちろん「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」という実に明快なご法義であって、教学が要求されるご法義ではないのは勿論であるが、面白いHPがあったので少しく日記に書いてみる。

以下、善導大師の『観経疏』の至誠心釈を見てみる事にする。

原漢文:
経云 一者至誠心 至者真 誠者実

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

ここでは、至誠心を至と誠に分けて、それぞれの意味を別の漢字で表す事によって言葉の示す意味を探求する手法をとっている。
漢字そのものは意味が多義的なため、他の用語との関連性において意味を探求しようとするのである。
至誠心が真実であるという事を、「至」とは真なり、「誠」とは実なりと定義し、真実とは何であるかを顕わそうとされる。

この部分は善導大師と親鸞聖人の間には差異はない。

つまり、至誠心の至誠とは真実であるといい、その真実とはどのようなものであるかを以下述べていくのである。

原漢文:
欲明 一切衆生 身口意業所修解行 必須真実心中作

善導大師:
一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。

親鸞聖人:
一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。

ここでは、「須」という漢字を親鸞聖人は「もちいる」と読まれて、善導大師の文章の当分である、身口意業の所修の解行は自らの真実心によってなすべきという意味を変えておられる。

この場合の「須ゐる」は、如来の真実心をもちいるのだ、と意味を転じておられる。

原漢文:
不得 外現賢善精進之相 内懐虚仮

善導大師:
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

親鸞聖人:
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、

善導大師の文の当分は、真実とは外に賢善精進の相を現じなさい、内に虚仮の心を懐いてはならない事だという。
内と外とが相応して真実であることが真実という意味であるといわれている

しかし、親鸞聖人は真実ということは、内に虚仮を懐いている不実なものが、外に賢善精進の相を現じてはならないとされる。
内が虚仮なのに、外へ賢善な姿を顕わすな、内も外も虚仮ではないかと言われるのである。
つまり、内も外も虚仮であって真実とは自己には無い、ということをもって真実の証明をされているわけである。
真実を解釈する為に自己に真実がないという事をもって真実というのであるから、文章の意味が180度変わってくる。

では何が真実なのですか、と親鸞聖人にお聞きすれば「阿弥陀如来である」という答えが返ってくるであろう。
このような解釈が、古来から浄土真宗における真実という言葉の解釈の一端である。

善導大師の訓点(浄土真宗聖典七祖篇 原典版)
http://wikidharma.org/4b2729bcce30d

御開山の訓点(浄土真宗聖典 原典版)
http://wikidharma.org/4b2729f6b96b9

ところが、浄土真宗を標榜しながら、親鸞聖人の意図に背きこれと全く逆に解釈する団体がある。

高森親鸞会のHP
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20080717zensusume.htm
魚拓
http://megalodon.jp/2009-1219-1226-22/www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20080717zensusume.htm

>>引用開始
善導大師のご教導

「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
これは、「大心海化現の善導」と親鸞聖人が称賛される、善導大師の有名なお言葉である。

「外」とは外面(言動)のこと。外面は、光に向かう努力精進の人となり、〝さすが親鸞学徒は違うなぁ〟と信頼される、言葉遣いや行為に努めなさい。
「内」とは内面(心)のこと。外面を幾ら賢善精進に飾っても、内面が醜悪であってはなるまい。心には、ウソ、偽り、妬み、嫉みなど、持たないよう慎むことを心がけなさい。何と厳しい教えではないか。

>>引用終了

高森氏の言葉を借りれば「あっと驚くタメゴロー」なのだが、最初このHPを見た時は驚いて吹いた。
こんなHPって、私たち高森親鸞会は『教行証文類』を読んだ事がありませんって全世界へ公表しているようなものなのだが、誰か注意する人物はいないのであろうか。

この事を指摘すれば、詭弁と弄言の好きな親鸞会では、善導大師の『観経疏』の至誠心釈を引用したのであって間違ってはいない、と抗弁するであろう。

しからば、浄土真宗親鸞会という呼称を止めろと言いたい。
さしずめ、高森氏の独断の解釈に依って成り立っている団体であるから「浄土偽宗高森会」とでもすべきであろう。