雑行とは、正行に対する語であり、雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりを開くことをめざす聖道門の行である諸善万行のことをいう。
この雑行は善導大師の『観経疏』深心釈・就行立信釈正雑ニ行判において、捨てるべきものであるとされている。
就行立信とは、行に就いて信を立てるという意味である。仏教にはさまざまな行があり、浄土門においても十九願の修諸功徳や、『観無量寿経』に説かれる、定善・散善という行があり、どのような行に就いて信を立てるのかというのが就行立信釈である。そして、その就行立信釈を善導大師は深心釈の最後に挙げられて深心釈の結語とされておられる。
浄土教では名号を称えるという行為が正行であり、それ以外の行は助行・雑行として判定し嫌貶されているのが以下の釈である。
就行立信釈の正雑ニ行判
次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。 正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。
何者かこれなるや。
一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口に称するにはすなはち一 心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養するにはすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす。 またこの正のなかにつきてまた二種あり。
一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。
もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。 この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。 もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。 もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づく。 ゆゑに深心と名づく。『観経疏』散善義p.464
この五正行とは、
①読誦正行。浄土の経典を読誦すること。
②観察正行。心をしずめて阿弥陀仏とその浄土のすがたを観察すること。
③礼拝正行。阿弥陀仏を礼拝すること。
④称名正行。阿弥陀仏の名号を称えること。
⑤讃嘆供養正行。阿弥陀仏の功徳をほめたたえ、衣食香華などをささげて供養すること。
の、五種であり、仏願(弘願)の上からいえば④の称名正行が正行であり、読誦、観察、礼拝、讃嘆供養は助行であるとされる。
この「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。」の、文によって法然聖人が回心されたのは有名な話だが、この文のどの部分によって回心されたのであろうか。
法然聖人は比叡山の浄土教の伝統の中で学び、念仏が往生の行であるということは既に知っておられた筈である。しかし、その念仏の行が自己の選ぶ行であるという事にためらいがあったのであろう。自己の選んだ行であるならば、選んだ主体の過誤は取り返しのつかない結果になるからである。
しかし、往生の正定の業(如来の選定された正しい行業)として、「かの仏の願に順ずるがゆゑなり」の文、漢文では「順彼仏願故」の文によって、念仏は阿弥陀如来の選択(せんじゃく)された行であったと気付かれたのである。私がとかくはからう前に、如来が念仏の行を選択して下さっていたという「順彼仏願故」の文によって回心されたのである。一字で表わすなら「故」である。
その感動を以下のように述べておられる。
「ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく彌陀の弘願に順ぜり。順彼仏願故の文ふかくたましいにそみ、心にとどめたる也」 (和語灯録)「法然聖人の回心」参照。
これが、第十八願の至心信楽欲生我国乃至十念の本願に順ずる、乃至十念の行であったのである。決定往生の行は念仏一行であるということである。
法然聖人の主著は『選択本願念仏集』であるが、これをほどその書の性格を現している題号はないであろう。まさに、阿弥陀如来が本願において選択してくださったのが念仏であるからである。
親鸞聖人は法然聖人に遇えた喜びを「後序」に感動をもって語られているのは周知である。ここで、親鸞聖人は不思議な言葉づかいをされておられる。
浄土門に入られた感動を「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」と記述されている。雑行を棄てて本願に帰す、と記述するならば雑行の反対語は正行である念仏であるから、雑行を棄てて正行に帰す、とか雑行を棄てて念仏に帰す、と記述するべきであろう。
それをあえて、雑行を棄てて本願に帰す、といわれるのは前述の法然聖人の回心と同じように、念仏が阿弥陀如来の本願に誓われた行であるからである。まさに順彼仏願故の師弟一味の信心である。
TS会では、雑行そのものは捨てるべきものではなく、それを修する自力心が問題なのだという。色法(一切の存在するもののうち、空間的占有性のあるもの)、心法(心の働きの総称)を意図的に混在させて、会員に雑行という名の善を奨めている矛盾を糊塗しているのだから悪質である。それとも色心二法ということを知らないからの妄言であろうか。
さて、善導大師が、雑行を嫌貶されたことは『往生礼讃』の雑行十三失が詳細である。
光号摂化
答へていはく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来し収むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、本深重の誓願を発して、光明・ 名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をもつて求念すれば、上一形を尽し下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて易く往生を得。このゆゑに釈迦および諸仏勧めて西方に向かはしむるを別異となすのみ。 またこれ余仏を称念して障を除き、罪を滅することあたはざるにはあらず、知るべし。
専雑得失
もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期となすものは、十はすなはち十ながら生じ、百はすなはち百ながら生ず。なにをもつてのゆゑに。外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに、仏の本願と相応することを得るがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順す るがゆゑなり。
もし専を捨てて雑業を修せんと欲するものは、百は時に希に一二を得、千は時に希に三五を得。なにをもつてのゆゑに。すなはち①雑縁乱動する によりて正念を失するがゆゑに、②仏の本願と相応せざるがゆゑに、③教と相違せるがゆゑに、④仏語に順ぜざ るがゆゑに、⑤係念相続せざるがゆゑに、⑥憶想間断するがゆゑに、⑦回願慇重真実ならざるがゆゑに、⑧貪・瞋・諸見の煩悩来り間断するがゆゑに、⑨慚愧・懺悔の心あることなきがゆゑなり。 懺悔に三品あり。一には要、二には略、三には広なり。下につぶさに説くがごとし。意に随ひて用ゐるにみな得たり。
また⑩相続してかの仏恩を念報せざるがゆゑに、⑪心に軽慢を生じて業行をなすといへども、つねに名利と相応するがゆゑに、⑫人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるがゆゑに、⑬楽ひて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆゑなり。なにをもつてのゆゑに。余、このごろみづから諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専雑異なることあり。ただ意をもつぱらにしてなせば、十はすなはち十ながら生ず。雑を修して至心なら ざれば、千がなかに一もなし。この二行の得失、前にすでに弁ぜるがごとし。『往生礼讃』P.659 ○数字は便宜の為付した。
TS会で現代の教行信証と呼ばれ出版準備までされながら、他者の著書からの剽窃が表面化し、出版を断念したというTS会会長の記述した『会報』の中から雑行十三失の解釈を引用しておこう。信心に対する考え方がおかしく全て肯定されるわけではないことを断っておく。また下品で言葉遣いが汚く攻撃的ではあるが、TS会の会長は雑行について、このように述べていた時代もあったのである。
>>引用開始
(一)雑縁乱動して正念を失するに由るが故に。
これは己れの努力によっては真実になれるのだと自惚れて、身口意の三業を磨き上げて功徳善根を積み、それによって弥陀の浄土へ往生しようと考えているのだが、か弱い不確実な自力をたよっているのだから、乱れ来る様々な悪縁にあうたびに思い固めた信心に狂いが生じて悩み苦しむのである。順境には感謝出来るが逆境に見舞われると忽ち信心がぐらつき、常に自己矛盾に悲しまなければならぬのである。
(二)仏の本願と相応せざるが故に。
この仏の本願とは阿弥陀仏の本願のことであるが、阿弥陀仏が十劫の古に、すでに十方の衆生は十悪五逆法謗闡提逆謗の屍であることを見抜いて本願を建立なされてあるのに自分はやればやれるのだと自惚れて諸善を積んだり、念仏を励んだりして助かろうと思っているのだから、苦労しながら阿弥陀仏の本願に相応しないのである。これでは助かる道理がない。
(三)教と相違せるが故に。
この教は釈尊出世本懐の教えをいう。即ち釈尊一代四十五年間の説法は我身知らずの我々に曽無一善、一生造悪、必墮無間の実機を知らせ、その悪機を救う弥陀の本願を信知させんが為のものであったのに、その釈尊の真意が判らず自分は善根功徳の積める善人だと思って雑行を励んでいるのだから釈迦一代の一切経を反古にしているのだ。真実教に背反して助かる筈がない。
(四)仏語に順ぜざるが故に。
この仏語は三世諸仏のお言葉であるが、その諸仏の証誠讃嘆のお言葉に順っておらぬからである。すでに十七願、諸仏咨嗟の願が成就して「十方恒沙諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃嘆したまう。」とありそれが、『阿弥陀経』の六方恒沙の諸仏如来の証誠護念のお言葉となったのであるが、これは決して諸善万行の徳を讃嘆なされたのではない。南無阿弥陀仏の名号に逆謗の屍を絶対の幸福に生きかえらせ得る威神力のあることを証明し讃嘆なされたものであることは明らかである。この仏語も知らず善根功徳をつんで助かろうと雑行を励んでいるのは当にこれらの仏語を疑い背き順じていないのだから助かることがないのである。
(五)係念して相続せざるが故に。
信楽開発した人なら仏凡一体機法一体だから動くままが、南無阿弥陀仏で問題にならぬことだが微塵ほども真実のないものが、善根を励んで行こうと力んでいるのだから心にかけながらも相続出来ないのは当然である。
(六)憶想間断するが故に。
信決定した人ならば現当二益の大益を頂いているから「憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」だが、自力で励んだ善根功徳で助かろうとするのだから静かな心の時と散乱している時と同じであり得ない。善がやれた時は助かるように思い悪が噴きあげた時はこれでは駄目だと悲観せずにおれないから往生の想念は常に間断せずにはおれないのである。
(七)廻願の慇重真実ならざるが故に。
善根がつめるのだと自惚れているのだから如来に向かっても廻向発願して願生する念が慇懃ではなく、また誠実でもない。善因をつんで善果を得ようという打算的な気持ちだから恭敬の念も尊重の念もある道理がないのである。
(八)貪瞋諸見の煩悩来りて間断するが故に。
三業を真実に出来ると自惚れて努力はしていても貪欲、瞋恚等の煩悩や様々の悪邪見がおきて折角の善根も悉く雑毒の善や虚仮の行となって修道の心を障げることになるのである。
(九)慚愧懺悔の心あることなきが故に。
懺悔といっても仏教では上中下の三種に分けて説かれている。上品の懺悔は全身の毛孔から血を流し眼から血涙を流す熾烈な懺悔である。中品は全身より熱い汗、眼から血涙を流す懺悔、下品は全身と眼から熱汗熱涙を流す懺悔をいう。「真心徹到する人は、金剛心なりければ、三品の懺悔する人と、ひとしと宗師はのたまえり」と『和讃』にあるように、真実の信心が徹底すれば我機に呆れ、本願に呆れ、無二の懺悔をさせられるけれども、自分は諸善が積める善人だと自惚れている者に慚愧の心や懺悔の心がないのは当然である。
以上、九失を聖人は十九願の行者の欠点となされ、折角聖道仏教を廃して浄土仏教に入りながら定散自力の心が廃らず雑行を捨て切れないで、またしても元の古巣へ舞い込まねばならぬとは残念至極ではないかと「定散諸機各別の自力の三心ひるがえし、如来利他の信心に通入せんとねがうべし」と速に雑行を投げすてることを祈念していわれるのである。
{中略}
(十)相続して彼の仏恩を念報せざるが故に。
如来のみ心が判らず、仏壇を立派にしたり、礼拝読経したり、御仏飯やお花を供養したり、念仏を称えることが御恩報謝だと思っている者がいるが、とんでもない思い違いである。
「弥陀の名号称えつつ、信心まことにうる人は、憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもひあり」「釈迦弥陀の慈悲よりぞ、願作仏心はえしめたる、信心の智恵にいりてこそ、仏恩報ずる身とはなれ」と『和讃』にあるように、阿弥陀仏が最もお喜びになるのは、我々が信心決定することであり、信楽開発の身になることである。
十劫の古より立撮即行のみ心は、偏えに我々が名号大功徳を受けとって大安心大満足になることを念じての御苦労であれば、これ以上に阿弥陀仏の御満足になることはないのである。その阿弥陀仏のみ心を知らないで、信心決定もせず、これだけ朝夕のお勤行欠かさずにしているから、これだけ真心こめて供養しているから、これだけ念仏称えているから、これだけ御恩報謝しているからと自惚れているのだから続く道理がない。
まだ助かってもいないものに御恩の判る筈もないし、御恩の判らぬ者に報謝の心のないのは当然である。「助正ならべて修するをば、すなわち雑修と名づけたり、一心をえざる人なれば、仏恩報ずる心なし」と聖人は喝破なされている。にもかかわらず、信心決定(助かる)することを忘れて礼拝したり読経したり、仏壇を立派にしたり御仏飯やお花を供養したり、念仏することを報謝だと思って、自惚れて、つとめているから、これだけやっているのだから大丈夫と自力をさしむけて、阿弥陀さまを泣かせているのだ。御恩報謝どころか弥陀を疑いはからい殺しているのだ。
「仏智疑う罪深し、この心おもいしるならば、くゆる心をむねとして、仏智の不思議をたのむべし」である。
(十一)業行を作すと雖も常に名利と相応する故に。
「真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし、修善も雑毒なる故に、虚仮の行とぞ名づけたり」と信楽開発して自力浄尽されていないから、自力のはからいが離れ切れないで、口では他力より助かる道はないとはいいながら、これだけ善根をつんでいるから他人がほめてくれるだろう。こんな親切しているから何かよいことがあるだろう、これだけ朝夕勤行しているから死んでも悪いところへはゆかんじゃろう。こんなに仏法の為につくしているから何か御利益があるだろうと、やることなすことが自分の名聞や利養を離れて考えられないのである。
(十二)人我自ら覆うて同行、善知識に親近せざるが故に。
「おれがおれが」という我慢我執の心によって真の知識や同行に近づくことが出来ないのである。「至言は耳にさからう」の諺のように真の知識や同行の言葉はきびしく、はげしく辛辣である。真実の仏法を聞くということは叱られるということである。叱られて有難いと思える程、我々の迷いは浅くないから、真の同行や知識の言葉は聞きたくないのである。
俺だけは大丈夫だと我慢我執の自力の心で固めた信心を持って安心している者は、法の手元の有難い話なら調子が合って喜べるが機の真実を聞かされると信心が動揺し不安になるから、折角、真の知識や同行にめぐり遇いながら離れよう離れようと努めるのである。
(十三)楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障々他するが故に。
自身の信仰の程度のお粗末なことに気がつかず、真実の知識や同行を疑謗して「あんなハッキリしたことをいうのは異安心じゃ、あんな話をきくと迷うぞ」と自分だけが近よらないようにするだけでなく、他人にまで吹聴して、自から第六天魔王になって真実の仏法を求める邪魔をするのである。
>>引用終了
かっては廃立を前面に打ち出し、三願転入を批判していたTS会会長であるが、いつしか三願転入を説き始めたりして腰が定まらないのは、浄土真宗という本願力回向というご法義を理解できないためであろう。当人が理解できていないことを聴かされるほど辛いことはないし会員には理解不能である。しかるに不思議なことにTS会の会員や講師は、教えがころころ変わったり矛盾した会長の言葉や行動を、私には理解できない「深い御心」と受け取るそうである。まさに奴隷の主人に対する服従の姿勢なのだが、自らの人生を他者に委ねてしまう会員は、TS会や講師そして会員間で共依存の関係に陥っているのかも知れない。
浄土真宗というご法義は、なんまんだぶを称える宗旨であり、凡夫が仏の覚りを得るにはこれしかないという、大乗至極の宗教である。
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
浄土真宗はお念仏を称える法義であることは上記の和讃で明らかである。また、『信巻』の「信一念釈」は『行巻』「行一念釈」と不離であり一具であるのだが、TS会会長は若年時の一時の感情の爆発を信心獲得と誤解したところから間違いがはじまったのであろうか。
TS会の会長は、雑行を捨てて正行のなんまんだぶに帰せという「従仮入真」という宗学用語を、仮からしか真に入れないと教えいるらしい。
また、『真仏土巻』の「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」という、これから述べる『化身土巻』の行信に迷っては駄目ですよ、と戒めた親鸞聖人の言葉を、仮をやってこそ真に出会えると全く逆の意味で教えているのである。
このような言説に騙される方もどうかと思うのだが、TS会では外部情報を遮断して本物の浄土真宗への道を遮断している。何千万何億人という人が、本願に誓われた往生の正行である、なんまんだぶを称えよという本願を信じお念仏してきたのが浄土門であり、その結論が浄土真宗である。
歎異抄の著者の言うとおり「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」というのが、法然・親鸞両聖人のお勧めである。