唯除五逆誹謗正法
これは、『無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の四十八願中の第十八願にある言葉である。
設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。 )
この第十八願の唯除の文は不思議な構成をしている。
四十八願の一々の願は、「設我得仏」ではじまり「不取正覚」の定型句で終わっている。しかし、ひとり第十八願だけに不取正覚の後に「唯除五逆誹謗正法」の文が置かれている。
十方衆生を平等に救うという第十八願に、何故このような唯除の文が置かれているのか、そしてそれはどのような意味があるのかが古来から論じられ考察されてきた。
天親菩薩の『浄土論』の偈文の最後に「普共諸衆生 往生安楽国」(あまねくもろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん。)とある。この「普共諸衆生」とはいかなる人を指し、いかなる衆生が往生できるのか、という問いを出し答えられているのが、曇鸞大師の『往生論註』の八番問答である。
この中の第三問答では、五逆を犯した者は救われるが、誹謗正法の者は自らの救済の正法を謗り否定しているのであるから、否定している法によって救われる筈がないではないか、と答えておられる。
五逆を犯したものは救われるが、あいかわらず誹謗正法の者は救われないのである。
しかし、善導大師は『観経疏』「散善義」において、抑止門という名目で誹謗正法の者もすくわれるのであると決せられた。以下、抑止門釋の現代語をあげておく。
「問うていう。『無量寿経』の四十八願の中に、五逆の罪を犯すものと正しい法を謗るものとが除かれるとあり、往生を許されていない。しかし、この『観無量寿経』の下品下生の文には、謗法のものだけを除いて、五逆の罪のものを摂め取るとある。それは、どのような意味なのであろうか。
答えていう。このことは、如来が罪をつくらせまいとして抑え止められる意味と理解される。四十八願の中に、謗法と五逆とを除くとあるのは、この二つの行いは、そのさわりがきわめて重いからである。
衆生がもしこの罪を犯せば、ただちに無間地獄に堕ち、限りなく長い間もがき苦しむばかりで逃れ出ることができない。そこで如来は、この二つの罪を犯すことをおそれ、慈悲の心から抑え止めて、<五逆と謗法の罪を犯すなら往生ができない>と仰せになったのである。摂め取らないということではない。
また、下品下生の文に、五逆のものは摂め取って謗法のものを除くとするのは、五逆の罪はもうすでに犯しているのであり、その罪人を見捨てて、迷いの世界に生れ変わり死に変りし続けさせてはならないと、さらに慈悲をおこし、摂め取って往生させてくださるのである。
しかし、謗法の罪はまだ犯していないから、<もし謗法の罪を犯すなら往生することはできない>と止められるのである。これはまだ犯していない罪のことと理解される。
もし犯したなら、またこのものを摂め取って往生させてくださるのである。ただし浄土に往生することができたとしても、蓮の花の中に包まれて、非常に長い間その中から出ることができない。これらの罪を犯した人には、花の中にいるとき、三つのさわりがある。一つには、仏や菩薩がたに会うことができない。二つには、仏の教えを聞くことができない。三つには、他の世界の仏や菩薩がたを供養することができない。この三つのさわりを除けば、<ちょうど、比丘が第三禅の世界の楽しみを受けるようなものである>と説かれている。よく知るがよい。花の中に包まれていて、非常に長い間その花が開かないといっても、無間地獄の中で限りなく長い間さまざまな苦しみを受けるのにくらべたなら、はるかにすぐれている。以上のように、このことはまだ犯していない罪を抑え止める意味と理解することができた」
このように如来の慈悲の至極(きわまり)によって、五逆誹謗正法の者も回心すれば化土ではあるが往生できる、とされたのである。
『無量寿経』は大きく分けると衆生の救済の因果を説く「弥陀分」と、釈尊の教戒を説く「釈迦分」に大別されている。
釈迦分は釈尊の「教喩」であるから三毒段、五悪段という人間の話が説かれている。対するに弥陀分は一方的に衆生救済が説かれ、法蔵菩薩の救済の因と果が説かれている。この弥陀分には衆生の罪が説かれてはいない。
この弥陀分の中心は四十八願であり、その四十八願の中に衆生に対して誓われた願が三つある。第十八願から派生する第一九願と第二十願の三願である。
第十九願には修諸功徳の善が説かれ、第二十願には衆生の善根を回向することが説かれているが、第十八願には善も回向も説かれてはいない。乃至十念のお念仏が説かれているだけである
この第十八願に説かれるのが「唯除五逆誹謗正法」の文である。この文が「設我得仏~不取正覚」という定型句の外に置かれていることの意味は、この言葉に注目させると同時に、第十八願は特別な願であることを知らしめるためであった、というのが浄土真宗の先達の見方であった。
第十八願には「若不生者 不取正覚」(もし生ぜずは、正覚を取らじ)と、自らの覚りの完成と衆生の往生を挙げて生仏一体の願である。衆生を浄土に生まれさせられないならが自らも仏には成らないという自他不二の誓願である。
このような自他不二の願は、善を修し悪を廃ることを勧める第十九願や、善根を回向する第二十願とは全く違った論理構造を持つのである。それは自業自得の因果論を超えた救済論であると言わねばならない。善と悪を超えた仏智の不思議の領域の救済である。
第十八願文の「設我得仏~不取正覚」の外に、唯除五逆誹謗正法と置くことによって、犯した罪の重さに泣きながらも救済の道を求める衆生を目当てとしているのが阿弥陀如来の選択本願である。
おかした悪に苦しんでいる衆生に、悪を示し罪を告げるにはしのびないというお心から、第十八願文の「設我得仏~不取正覚」の本願文中に唯除五逆誹謗正法の文を入れることが阿弥陀如来には忍びなかったというのであろうか。
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