正しく読む『正信念仏偈』

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」というブログがある。

このブログは高森親鸞会講師のブログであり(宗祖の御名前を使うのにしのびないので以下TS会という)、ここで提示された「一切衆生 必堕無間」なる用語に関して脱会者諸兄と議論があった。

この「一切衆生 必堕無間」の例は、TS会会長の高森顕徹著(昭和44年五月五日発行 平成19年1月5日 第22版)の、『こんなことが知りたい①』のp.7に

経典に釈尊は「一切衆生 必堕無間」と説かれています。これは、総ての人間は必ず無間地獄へ堕ちて苦しむということです」

と、経典に釈尊は、とあるがその釈尊が説かれた「一切衆生 必堕無間」という経典とは何かという議論である。

聖典とは聖智を開いた覚者の言葉をいうのであるが、TS会では会長の高森顕徹氏が編纂した短冊に羅列した文言を『教学聖典』と呼称し、会員に暗記を奨めている。このような聖典を編纂できるほどの力量がある人が間違っても経典に釈尊は、と経典の言葉を創作するとは思えない(たとえ日蓮上人の『撰時抄』が、その根拠にしても)。

そのような意味で、元会員が「一切衆生 必堕無間」の出拠、出典を問うことは当然の行為であり、高森顕徹氏が、もしまともな仏教者であるならば真摯にその問いに答えるべきであろう。

さて、件のTS会ブログでは、「一切衆生 必堕無間」なる語の出拠が提示できないため、「正信念仏偈」から、道綽讃「一生造悪値弘誓」、源信讃の「極重悪人唯称仏」を出してきた。言葉というものは使われた歴史やその思想の背景を把握しなければ、正確にその言葉の持っている意味を領解できないものである。しかるにTS会は自説に都合のよい言葉だけを集め元の文章を断章する。これはTS会の会長が他者の著作を剽窃し、自己に都合のよい部分だけを切り張りしてきた習性なのであろうか。

断章して言葉の意味を入れ替え、文脈から切り離した解釈をするのはTS会の常套手段であり、件のブログで引用している「正信念仏偈」の文は、TS会の特徴の断章であり、「正信念仏偈」を破壊するような引用の仕方をしている。

そもそも、「正信念仏偈」は、以下の偈前の文にもあるように、

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈(論註・上 五一)を披きたるにのたまはく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓すべし。また所願軽からず。もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加す、このゆゑに仰いで告ぐ」とのたまへり。{以上}

しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、「正信念仏偈」偈前の文

と、「正信念仏偈」は、知恩報徳のための讃嘆の偈頌であるとその造由を述べておられる。
TS会では、南無阿弥陀仏という行なき信を標榜するせいであろうか、「正信」という信と「念仏」という行の行信が理解できないのであろう。
また、この『正信念仏偈』は、「また方便の行信あり」と仰るように『方便化身土文類』に説かれる、TS会の主張する『観無量寿経』に説かれる行信に対している。このことは、浄土三部経のそれぞれの教説を、三願・三経・三門・三藏・三機・三往生に分類された「願海真仮論」から明らかである。

さて、「一生造悪値弘誓」である。これは「正信念仏偈」道綽讃の、

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

の、一生造悪値弘誓からの引文であろう。「七祖聖教」を読むことが禁止されているTS会の講師/会員には意味不明だろうが、これは善を修す仏教と信の仏教の違いをあらわす『安楽集』の「聖浄二門」の言葉である。

当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。 このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。『安楽集』「聖浄二門

リンク先の文章の文を見るまでも無く、「縦令一生造悪」のものが、自力の行を離れ如来回向のなんまんだぶを称えることによって安養界(浄土)の妙果を証すというのが道綽禅師の文の意である。

さて、次は「極重悪人唯称仏」だ。これは源信僧都の『往生要集』念仏証拠門からの引文である。

源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
極重悪人 無他方便 唯称念仏 得生極楽  『往生要集』念仏証拠門

ここでも、唯々なんまんだぶを称えることを勧められ極楽に往生するとされているのであって、一切衆生が悪人であるという意味ではない。
ちなみに、我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我の句は、『往生要集』雑略観の、

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無惓常照我身  往生要集』雑略観

からであり、この文の前に「またかの一々の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。」と念仏衆生 摂取不捨のなんまんだぶを称えるゆえの摂取が顕されている。この一段は親鸞聖人が『尊号真像銘文』で、「「念仏衆生摂取不捨」(観経)のこころを釈したまへるなりとしるべしとなり。」とあることからもあきらかである。

至誠心については、「至誠心釈」、「雑毒の善」でふれたので参照されたし。