TS会の教義の根幹であろうか、それとも高森氏が剽窃した伊藤、大沼両師の著書からであろうかこの語をもって浄土真宗を語る。(この場合の語るは騙るではないのかと思ふのは特に秘す)。
この語は『教行証文類』の『信文類(末)』の、横超釈からの引文であろう。
この横超釈では、
横超断四流(玄義分 二九七)といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。『信文類』p.254
と、『観経疏』玄義分の偈文「横に四流を超断すべし」を引文して、親鸞聖人が教判をなされている文言である。
高森会では断章するから意味が判りにくいのだが、親鸞聖人がこの文で言おうとされているのは教判である。以下にその教判を」図示す。
何処かで見た図である。二双四重の教判で論じた親鸞聖人の教判である。
要門・真門という高森会のいう横出の道を捨てて、横超の御本願に帰すのですという道を示すのが「一実円満之真教」の教えである。
浄土真宗は「本願力回向」の、向こうから来るご法義である。この如より来るご法義を、会員が求めるべき道であるとして教えるのが高森会である。そして、その対価として善のすすめという名の寄付という金銭を収奪し、人集めという時間を浪費させてきたのが高森会の歴史であろう。
「一切衆生 悉有仏性」と、あらゆる存在が、真理に目覚めたものになる本性をもっているというのが大乗仏教の究極の思想である。
我に救われたいなら、わが名を称えよというのが浄土真宗である。子が親の名を呼ぶことによって安心するように、言葉と声になって救済を告げるという慈悲の至極が、なんまんだぶのご法義である。安心とか信心という暇つぶしの論義は、この原則を受け容れた後に展開される報謝である。
なんまんだぶ なんまんだぶ、やったね。
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