とあるブログ間で『教行証文類』「化巻」の「極重悪人唯称弥陀」であれこれやり取りをしている。
しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。
ここんとこは引用の引用で、 言葉の意味が3回くらいひっくり返ってるのだが、その経緯を以下にメモをしておく。
そもそも、この文の出拠は懐感禅師の『群疑論』であり、御開山は『群疑論』を直接引用せずに源信僧都の『往生要集』に引文された処を参照されておられる。
これは、法然聖人の『選択本願念仏集』の「偏依善導釈」で、
問ひていはく、もし三昧発得によらば、懐感禅師はまたこれ三昧発得の人なり。なんぞこれを用ゐざる答へていはく、善導はこれ師なり。懐感はこれ弟子なり。ゆゑに師によりて弟子によらず。いはんや師資の釈、その相違はなはだ多し。ゆゑにこれを用ゐず。
と、法然聖人が示されたように、唯識の立場によって浄土門仏教を把握しようとした懐感禅師の『群疑論』に疑問をもって直接の引文を忌避したのであろう。
で、以下は暇つぶし。
『群疑論』:無量壽經又言。上中下輩行有淺深。皆唯一向專念阿彌陀佛。
無量寿経にまた言く、上中下輩の行に淺深あれども。みなただ一向に阿弥陀仏を念ぜよ。
『往生要集』:二 双観経 三輩之業 雖有浅深 然通皆云 一向専念無量寿仏
二には、『双巻経』の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通じてみな「一向にもつぱら無量寿仏を念じたてまつれ」とのたまへり。
『教行証文類』:
引用なし
『群疑論』:又 四十八弘誓願。於念佛門 別發一願言。乃至十念 若不生者 不取正覺。
また四十八の弘誓願、念佛門において別に一の願を発してのたまはく、乃至十念せん、もし生ぜずは、正覚を取らじ
『往生要集』:
三 四十八願中 於念仏門 別発一願云 乃至十念 若不生者 不取正覚
三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく(同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。
『教行証文類』:
念仏証拠門中 第十八願者 顕開 別願中之別願
念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。
『群疑論』:観経下品上生・下品中生・下品下生三処経文 咸陳唯念阿弥陀仏往生浄土
観径の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。
『往生要集』:
四 観経極重悪人 無他方便 唯称念仏 得生極楽
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
『教行証文類』:
観経定散諸機者 勧励極重悪人 唯称弥陀也
『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。