宗教において教祖に絶対服従してしまうことを「知識帰命」という。
真宗においては阿弥陀如来に帰依することを帰命というのであるが、その教説を説く者を絶対化し崇拝する対象としてしまう異義である。
古来から浄土真宗では阿弥陀如来を人格化して、親さまなどと呼称して来たので対人関係のみでしか関係性を構築できない人はこのような異義に陥りやすい面もあるのだろう。
信という言葉は、人+言(ことば)という意味もあるから、法を説く人を絶対化しその言葉を受け入れ従うことが信であると誤解するのである。
釈尊が涅槃にお入りになるとき、偉大な人格を失う恐怖におびえる弟子達に「今日からは、自らを灯明とし法を灯明とすべし」といわれ自灯明・法灯明ということをお示しであった。
これを『大智度論』に、四つの依りどころの法四依として、
釈尊がまさにこの世から去ろうとなさるとき、比丘たちに仰せになった。
①今日からは、教えを依りどころとし、説く人に依ってはならない。(依法不依人)
②教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。(依義不依語)
③真実の智慧を依りどころとし、人間の分別に依ってはならない。(依智不依識)
④仏のおこころが完全に説き示された経典を依りどころとし、仏のおこころが十分に説き示されていない経典に依ってはならない。(依了義経不依不了義)(『註釈版聖典』p.414)
このように、説く人に依ってはならないという意で、以下のような話を聞いたことがある。
和上のお寺で、近隣の坊さんの法話があった。
その法話に参っていたばあちゃんが、和上の部屋の前をぶつぶつ言いながら通ったそうである。
聞くとはなしに聴くと、
今日の布教使は若い頃はろくでもない奴じゃったなぁ。
酒は飲むしケンカ腰で物をいうし、ほんまに近郷近在のロクデナシじゃった。
ほんでもなあ、今日の説教はありがたかったな。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…
人の人格や生き方や知識や人生観や見てくれや矜持や態度には、何の用事もないのである。
我々に用事があるのは、阿弥陀さまのご法義である。
そんな話を和上にお聞かせに預かったものだった。
爾来、知識帰命というようなモノからは無縁で、たとえ新発意(新米の坊主)の、本を読むような法話でもあり難いものは有り難く、熟練した布教使の法話でもつまらんものはつまらんと駄目だしができるようになったものだ。
お聴聞は法を聞く耳を育てるというが、熟練してくると猫のちょっとしたしぐさや一杯の酒にでも法を聴けるものではある。
それにしても、最近の法話は人間の話ばっかりで、阿弥陀さまの話をなんまんだぶの話を出きる坊主が減ったのは困ったものだな。
2023年7月26日 7:17 PM
融通念仏も知識帰命で異安心ですね。そたしたら
そうではないと
否定されました、賢い二人
の説教師にビックリでした。