慈海さんの日記に触発されて過去ブログから転載
聞くままに また心なき 身にしあれば
おのれなりけり 軒の玉水 道元禅師
だいぶ昔の春先の夜中のことであった。
ふと夜半に目が覚めたところ、屋根の淡雪がしずくとなって軒下の水溜りにポトン・ポチャンと落ちる微妙(みみょう)な音が耳に聞こえてきた。
何気なく聞いているうちに、聞いている私が主体なのか聞こえてくる音が主体なのかが判らなくなり、世界が音だけになってしまうという経験をした。
後年、冒頭の道元禅師の歌を知り多分道元禅師も越前の山奥での心象風景をこのような歌にされたのだろうなあと勝手な感慨にふけったものだ。
ある和上が、我々は花を見る、というが本当の花を見ているのではなく、花という我々の脳内でこしらえた概念の虚像を見ているのですよ。
一本の花が、花が花を見るように花を見た時初めて花を見たということが言えるのです、といわれた事があったが「天地と我と同根」という言葉の意味が少しだけ解った気がしたものだ。
ご法義に「経験」という個人的感覚を持ち込む事は小生の最も唾棄すべきことではあるが、論理や感情を媒介することなくモノを直接的に把握/認識するという事もあるのかも知れないと思っていたりもする。
しかし、当流には「仏弥勒に語りたまはく、〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」(註釈版81P)、という、一念/一声の南無阿弥陀仏がある。
称える者の経験や知識などには何の関係なく、仏の名号を聞いて喜び南無阿弥陀仏と一声のお念仏を称える事がこの上ない功徳をもつ行であるとのお勧めである。称える側には意味がなくとも、称えさせようとする側に意味があるのがなんまんだぶつである。
なんまんだぶつという声になって悟りへ至らしめようという名号は、如来の慈悲の極まり(十七願:大悲の願)であり無上の功徳である。浄土門仏教徒にとっての究極の言葉はなんまんだぶつである。自らの知識経験が何の役にも立たない時、絶望の極みの奥底(おうてい)に届く言葉は南無阿弥陀仏である。その名号に呼応しようと思い立つ心の発るとき御開山や蓮如上人が見ておられた世界の消息が窺がえるのである。
大悲の願から出る南無阿弥陀仏がこちら側の一声となって、また大悲へ還っていく世界があるのですよ、と先人はお勧めである。ともすれば私が称える念仏と思いがちだが、御開山は、南旡阿弥陀仏を讃嘆するという大行の出所は私の口ではありません。「しかるにこの行は大悲の願より出たり」(141p)との仰せである。出るところが違うのである。
このようなお念仏の世界を「わたしゃつまらん、聞くばかり」と仰った先人がいたが、自らの行為に意義を見出そうとする立場ではつまらんご法義である。しかし、それが本当の仏道でしたねと肯(うけが)ふ時に拓ける世界もまたあるのである。
「至心信楽おのれを忘れてすみやかに無行不成の願海に帰」(1069p)すと、なんまんだぶつという誰でも実践できる行があるのはありがたいこっちゃ。
PS:
なお、水の音を聞き味合うものに水琴窟(すいきんくつ)というものがあるそうである。地中に甕を埋め蹲(つくばい)を通した水が甕の中に落ちて甕に反響する音を楽しむものだそうである。
「梵声悟深遠 微妙聞十方」(浄土論)には及ぶべきもないが、確かに水の音は不思議な音色を聞かせてくれるものである。
水琴窟の音の例:
http://www.eikando.or.jp/Suikinkutsu.mp3