井戸のつるべ

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井戸つるべ

昔は、つるべ井戸をよく見かけたが、最近ではほとんど見かけない。
井戸そのものも見かけることが少なくなった。

さて、昔の布教使は、身近にある題材でご法義の概念を語ったものである。

落ちるつるべが上がるつるべ

、という表現もそれである。
つるべは、片方の桶が井戸の底の方に落ちるとき、反対側の桶が上に上がる。

落ちるから上がるのであり、上がるから落ちるのである。

いわゆる、二種深信の話である。
救われないから救われる、という二種深信のたとえ話なのだが、よく出来ている話だと思ふ。
最近の布教使は、法の深信をよく領解していないから、判り易い機の深信の法話になりがちである。
確かに機(人間)の話は分り易いのであるが、機の深信の話は、どうしても罪悪感と結びついてしまう。
そして、聞く側に罪悪感が信心であると思わせるような法話になりがちである。

法の深信と機の深信は一具なのであるが、別々の深信があると受け取られてしまう恐れがある。
救われない者が救われるということを矛盾であると感じてしまうのだろう。

その点、つるべの例話は、よく出来ているはなしである。
落ちるつるべが上がるつるべであり、救われないことが救われるということである。
ましてやつるべは片方では役に立たないのであり、一具であってこそ意味を成すのである。

ちなみに「法」とは、阿弥陀如来の救済法をいう。
機とは、機関、機微、機宣と熟してその意味を表わす。

機関 仏の法を聞き入れる関係にあるもの。
機微 微かでも法を聞く能力の可能性のあるもの。
機宣 仏の法を宜しく承るもの。

つまり、機とは法の対象のことである。

「より二種深信について知りたい人は」↓
「わかりやすい宗義問答」

七深信

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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林遊は、二種深信という用語があまり好きではない。

御開山には、二種深信という言葉はなく、たしか存覚上人が二種深信という用語を使われたのが初出だと思う。ただ、法然聖人は『選択本願念仏集』で、二種信心という語を使われている。[*]

言葉というのものは、対象を限定するという性質を必然的に持ち、他と区別するという働きがある。
花という言葉は、花以外のものを捨象したときに、花という言葉が意味を持つ。
赤い花という言葉は、赤ではない花を意識の中で除外したときに、赤い花という言葉が成立する。赤い花という言葉は、赤くない花(白や黄色や青)を排除したときに、言葉としての意味を持つのであろう。

で、何が言いたいかというと、二種深信という言葉によって、排除されてしまった『観経疏』の概念を思い出して欲しいということである。確かに、廃立という選択の論理は、林遊のような愚者が救われる道ではあるのだが、少なくとも、御開山は、「七深信」ということを『愚禿鈔』に表わされているのだから、これを、確かめることもあながちに無駄ではないと思ふ。
善導大師は、『観経疏』の深心釈で、観経の深心(観経の当分の意味は深い菩提心である)を、深信(深く信ずる心)であると定義された。いわゆる、至誠心・深心・回向発願心の三心での中の深心を信心であると釈されたのである。
大乗仏教の理想像である菩薩は、菩提心をもつがゆえに菩薩であるのだが、この菩提心を「深心=深信」と転換なさったのが、善導大師の御手柄である。
御開山は、この善導大師のおこころを受けて、一者、二者の深心釈を拡げて、七深信とされたのであろうか。
以下、『愚禿鈔 (下)』の、深心釈を挙げる。

>>
「二には深心。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。
一には、決定して〈自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし〉と深信す。
二には、決定して〈かの阿弥陀仏、四十八願をもつて衆生を摂受したまふ、疑なく慮りなく、彼の願力に乗ずれば、さだめて往生を得〉と深信せよ」となり。{文}

いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。

文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。

七深信とは、

第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。
>>

御開山は、自利を自力、利他を他力と領解しておられた。
つまり、 第一の深信は自力の信であり、 第二の深信は他力の信であるということであろう。
御開山は、第一の深信を、「自利の信心」と釈され、第二の深信(利他の信海)と、一具でない、第一の深信は、自利(自力)の信心とされる。
二種深信を論じる輩は、二種深信という言葉に眩惑され、救うものと救われるものが一体であるという論理が理解できないのであろうか。
ちなみに、林遊の場合は、 第五の「唯信仏語」を受容している。「唯信仏語」の注記に「利他信心」とあるのもその理由の一端だが、仏語を受け入れた時に、虚妄ではない世界の消息が窺えるのであろう。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

本物の六字名号

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
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六字名号

親鸞聖人自署

 

他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。

『蓮如上人御一代記聞書』
本物は本物であるから、あれこれ策を弄する必要はないのだがが、偽者は偽者を本物のように見せる必要があるから、コピー&ペーストなど、あれこれ策を弄する必要があるのであろう。「参照
浄土真宗では、「名号の機にあるのを信心」というのであり、木像よりは絵像、絵像よりは名号、名号よりは口に称えられる、なんまんだぶである。
木像や絵像や名号に救われるのではなく、凡夫の口先に称えられる、なんまんだぶによって救われるのが浄土真宗のご法義である。
本尊論云々は、信のうえでのご報謝の遊び事である。灯をともし香を焚き華を飾って遊ぶ、ご恩報謝の楽しみ事である。

十方微塵世界
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
『弥陀経讃』

阿弥陀如来とは、十方微塵世界の、念仏の衆生をみそなはして摂取して捨てないから、阿弥陀如来というのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……称名相続

木像よりは絵像、絵像よりは名号

ちょっといい本

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親鸞聖人の教え・問答集 [単行本]
梯 實圓 (著)  ¥ 1,995

内容(「BOOK」データベースより)←リンク
浄土真宗本願寺派の教学をリードする碩学の平易で綿密、諄々とした解説。親鸞の教えの基本から誤解されやすい重要語の意味の歴史的変遷、他宗他派の説、親鸞独自の見解などを明かし、念仏者の生き方を説く。

元々Q&A形式で書かれたものであるので、初心者にも読みやすい内容になっている。また、Q&Aであるので各文章が短く、読んでいて負担になることも少ないであろう。
あまり馴染みのない「覈求其本釈(かくぐごほんしゃく)」の解説など、浄土真宗で使われる「他力」という言葉の重要な概念についても触れられている。
読み易いという事と判り易いという事は違うのだが、真宗用語の出典・出拠が明示してあるので、より深く学びたい方にも便利である。
なお、浄土真宗本願寺派の『註釈版聖典』、『註釈版聖典七祖篇』などを手元に置いて読めばより理解が深まるであろう。
これらの書籍が手元にない場合でも、ネット上で、「WikiArc 浄土真宗聖典電子化計画」
http://labo.wikidharma.org/
に、上記書籍の内容が掲載してあるので参照されたい。
(著書名+#P–### ← ###はページ数でページ内容が表示される。一部はno##で対応する科段も可)

仏が言葉であった

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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本棚の埃まみれの蔵書を引っ張り出して乱読中。
買って読んだ時にはよく理解できなかった事が、ふとすこし解かることもあるから読書は面白い。

以下『親鸞のコスモロジー』大峯顕 著から
>>
南無阿弥陀仏の名号

ところでもうひとつ私がお話したいと思っていますのは、南無阿弥陀仏の名号の問題です。
念仏によって救われることを説く浄土真宗とはいったい何か。私が思いますには、親鸞の浄土真宗とは、「仏が言葉であった」ということの発見ではないかということです。
南無阿弥陀仏という名号がすなわち仏であります。人間存在を本当に救うところのものは本当の言葉以外にはない。名前のない仏は私を救うことはできない。
名前のない仏を一生懸命考えたり、その仏についていろいろ研究したり分析したり、そんなことで人間は救われない。そうではなく仏の名前を称えることによってはじめて人間は救われる。
逆に言いますと、本当のもの、真実あるいは如来とは、言葉になってわれわれに現われるものである。浄土真宗の本質にそういう思想があると思います。
念仏によって救われるという時、その念仏とは実は、言葉になった仏にほかならないのです。われわれを救うものは本当の言葉なんだ、と思うのです。
私の専門は真宗学ではありませんが、真宗学の論文などを読みましても、南無阿弥陀仏が人間を救うとはどういうことか、称名念仏によって救われるとはどういうことかということをはっきりさせた方はおられないように思います。
これは必ずしも私だけが思っているのではなく、たとえば鈴木大拙さんも昭和十七年の『浄土系思想論』の中でやはりそういうことを指摘しております。

「名号の問題は浄土教学における根本間題の一つである。ある意味からすれば、唯一の根本間題ともいえる。何故かというに、この名号が会得せられると、それが直ちに信であり、一心であり、本願であり、浄土往生であり。還相回向であるからである。真宗教学の全機構は名号の上に築かれているといってよい」
鈴木大拙はこのように書いています。
>>

大嶺師は、言葉を、日常の言葉、学問的認識の言葉、真実の言葉、というように分類する。
そして、名号(なんまんだぶ)とは、真実の領域から現れる仏の言葉(お前を必ず救う)であると言う。
言葉が事柄そのものを本当に言い表わしている事が「まこと」であると言う。
才市さんは、
浄土から、なんまんだぶの樋かけて、
知識口から才市の口へ、
浄土の味の水のうまさよ
と、詠ったそうであるが、真実の世界である浄土から林遊の上に顕現している「言葉」が、なんまんだぶという名号である。
『無量寿経』には、四十八願に重ねて誓って、
我至成仏道 名声超十方
(われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん )
究竟靡所聞 誓不成正覚
(究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ)
と、ある。
御開山はこれを『正信念仏偈』で、
この「重誓偈」の名声超十方を、重誓名声聞十方(重ねて誓うらくは、名声十方 に聞こえんと)と、超を聞と言い換えておられる。名号が声となって聞こえるのであるという意を顕されたかったのであろう。

浄土真宗では、称えることは聞くことであり「称即聞」という。
また、聞くことは信であると「聞即信」という。
なんまんだぶを称えることは、なんまんだぶを聞くことであり、それが如実の信である。
仏が浄土が林遊の上で顕現している相(すがた)が、浄土真宗の「如来よりたまはりたる信心」であった。無限遠点の仏や浄土が、今現在の林遊の上ではたらいているすがたが、なんまんだぶである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったね

さびしいとき

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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私がさびしいときに、
よその人は知らないの。

私がさびしいときに、
お友だちは笑ふの。

私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。

私がさびしいときに、
佛さまはさびしいの。

[金子 みすゞ]

仏教に同悲(どうひ)、同苦(どうく)という言葉がある。
衆生の悲しみを自らの悲しみとし、自らの苦として共感して下さるのが仏さまであった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

今様

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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今様

阿弥陀仏(あみだほとけ)の誓願ぞ
かえすがえすもたのもしき
ひとたび御名をとなうれば
佛になるぞと説いたもふ
『梁塵秘抄』 

親鸞聖人の和讃も七五調四句の今様形式である。
五七五七七形式の和歌と違って、抒情的な調べではなく、物/事を説明するのに適しているような気がする。
『古今和歌集』って、何か巧言綺語の技巧的な雰囲気があるので、御開山は和歌による表現を採用されなかったのかも知れんな。

で、林遊の好きな『梁塵秘抄』から一句。

遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動(ゆる)がるれ

意味の解釈はご自由にどうぞ。