私がさびしいときに、
よその人は知らないの。私がさびしいときに、
お友だちは笑ふの。私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。私がさびしいときに、
佛さまはさびしいの。[金子 みすゞ]
仏教に同悲(どうひ)、同苦(どうく)という言葉がある。
衆生の悲しみを自らの悲しみとし、自らの苦として共感して下さるのが仏さまであった。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
私がさびしいときに、
よその人は知らないの。私がさびしいときに、
お友だちは笑ふの。私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。私がさびしいときに、
佛さまはさびしいの。[金子 みすゞ]
仏教に同悲(どうひ)、同苦(どうく)という言葉がある。
衆生の悲しみを自らの悲しみとし、自らの苦として共感して下さるのが仏さまであった。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
今様
親鸞聖人の和讃も七五調四句の今様形式である。
五七五七七形式の和歌と違って、抒情的な調べではなく、物/事を説明するのに適しているような気がする。
『古今和歌集』って、何か巧言綺語の技巧的な雰囲気があるので、御開山は和歌による表現を採用されなかったのかも知れんな。
で、林遊の好きな『梁塵秘抄』から一句。
遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動(ゆる)がるれ
意味の解釈はご自由にどうぞ。