本棚の埃まみれの蔵書を引っ張り出して乱読中。
買って読んだ時にはよく理解できなかった事が、ふとすこし解かることもあるから読書は面白い。
以下『親鸞のコスモロジー』大峯顕 著から
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南無阿弥陀仏の名号
ところでもうひとつ私がお話したいと思っていますのは、南無阿弥陀仏の名号の問題です。
念仏によって救われることを説く浄土真宗とはいったい何か。私が思いますには、親鸞の浄土真宗とは、「仏が言葉であった」ということの発見ではないかということです。
南無阿弥陀仏という名号がすなわち仏であります。人間存在を本当に救うところのものは本当の言葉以外にはない。名前のない仏は私を救うことはできない。
名前のない仏を一生懸命考えたり、その仏についていろいろ研究したり分析したり、そんなことで人間は救われない。そうではなく仏の名前を称えることによってはじめて人間は救われる。
逆に言いますと、本当のもの、真実あるいは如来とは、言葉になってわれわれに現われるものである。浄土真宗の本質にそういう思想があると思います。
念仏によって救われるという時、その念仏とは実は、言葉になった仏にほかならないのです。われわれを救うものは本当の言葉なんだ、と思うのです。
私の専門は真宗学ではありませんが、真宗学の論文などを読みましても、南無阿弥陀仏が人間を救うとはどういうことか、称名念仏によって救われるとはどういうことかということをはっきりさせた方はおられないように思います。
これは必ずしも私だけが思っているのではなく、たとえば鈴木大拙さんも昭和十七年の『浄土系思想論』の中でやはりそういうことを指摘しております。
「名号の問題は浄土教学における根本間題の一つである。ある意味からすれば、唯一の根本間題ともいえる。何故かというに、この名号が会得せられると、それが直ちに信であり、一心であり、本願であり、浄土往生であり。還相回向であるからである。真宗教学の全機構は名号の上に築かれているといってよい」
鈴木大拙はこのように書いています。
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大嶺師は、言葉を、日常の言葉、学問的認識の言葉、真実の言葉、というように分類する。
そして、名号(なんまんだぶ)とは、真実の領域から現れる仏の言葉(お前を必ず救う)であると言う。
言葉が事柄そのものを本当に言い表わしている事が「まこと」であると言う。
才市さんは、
浄土から、なんまんだぶの樋かけて、
知識口から才市の口へ、
浄土の味の水のうまさよ
と、詠ったそうであるが、真実の世界である浄土から林遊の上に顕現している「言葉」が、なんまんだぶという名号である。
『無量寿経』には、四十八願に重ねて誓って、
我至成仏道 名声超十方
(われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん )
究竟靡所聞 誓不成正覚
(究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ)
と、ある。
御開山はこれを『正信念仏偈』で、
この「重誓偈」の名声超十方を、重誓名声聞十方(重ねて誓うらくは、名声十方 に聞こえんと)と、超を聞と言い換えておられる。名号が声となって聞こえるのであるという意を顕されたかったのであろう。
浄土真宗では、称えることは聞くことであり「称即聞」という。
また、聞くことは信であると「聞即信」という。
なんまんだぶを称えることは、なんまんだぶを聞くことであり、それが如実の信である。
仏が浄土が林遊の上で顕現している相(すがた)が、浄土真宗の「如来よりたまはりたる信心」であった。無限遠点の仏や浄土が、今現在の林遊の上ではたらいているすがたが、なんまんだぶである。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったね