林遊は、二種深信という用語があまり好きではない。
御開山には、二種深信という言葉はなく、たしか存覚上人が二種深信という用語を使われたのが初出だと思う。ただ、法然聖人は『選択本願念仏集』で、二種信心という語を使われている。[*]
言葉というのものは、対象を限定するという性質を必然的に持ち、他と区別するという働きがある。
花という言葉は、花以外のものを捨象したときに、花という言葉が意味を持つ。
赤い花という言葉は、赤ではない花を意識の中で除外したときに、赤い花という言葉が成立する。赤い花という言葉は、赤くない花(白や黄色や青)を排除したときに、言葉としての意味を持つのであろう。
で、何が言いたいかというと、二種深信という言葉によって、排除されてしまった『観経疏』の概念を思い出して欲しいということである。確かに、廃立という選択の論理は、林遊のような愚者が救われる道ではあるのだが、少なくとも、御開山は、「七深信」ということを『愚禿鈔』に表わされているのだから、これを、確かめることもあながちに無駄ではないと思ふ。
善導大師は、『観経疏』の深心釈で、観経の深心(観経の当分の意味は深い菩提心である)を、深信(深く信ずる心)であると定義された。いわゆる、至誠心・深心・回向発願心の三心での中の深心を信心であると釈されたのである。
大乗仏教の理想像である菩薩は、菩提心をもつがゆえに菩薩であるのだが、この菩提心を「深心=深信」と転換なさったのが、善導大師の御手柄である。
御開山は、この善導大師のおこころを受けて、一者、二者の深心釈を拡げて、七深信とされたのであろうか。
以下、『愚禿鈔 (下)』の、深心釈を挙げる。
>>
「二には深心。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。
一には、決定して〈自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし〉と深信す。
二には、決定して〈かの阿弥陀仏、四十八願をもつて衆生を摂受したまふ、疑なく慮りなく、彼の願力に乗ずれば、さだめて往生を得〉と深信せよ」となり。{文}いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。
文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。
七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。
>>
御開山は、自利を自力、利他を他力と領解しておられた。
つまり、 第一の深信は自力の信であり、 第二の深信は他力の信であるということであろう。
御開山は、第一の深信を、「自利の信心」と釈され、第二の深信(利他の信海)と、一具でない、第一の深信は、自利(自力)の信心とされる。
二種深信を論じる輩は、二種深信という言葉に眩惑され、救うものと救われるものが一体であるという論理が理解できないのであろうか。
ちなみに、林遊の場合は、 第五の「唯信仏語」を受容している。「唯信仏語」の注記に「利他信心」とあるのもその理由の一端だが、仏語を受け入れた時に、虚妄ではない世界の消息が窺えるのであろう。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ