お聴聞は、いいものである。
浄土真宗は、「聴聞に極まる」という。
究めるのではなく極まるのである。
このご法義の先人は、聴聞を、聴けば聞こえると和語にして下さった。
聴聞の聴は、聴く私が主体の能動性であるが、聞は受動性の聞であるという意味である。
聴いた法が、聞こえたとおりにはたらいている状態を聴聞というのである。
聴を究めるのではなく、聞に極まるのである。
ここで、何を聴くかといえば自らの「救い」を聴くのである。
救いの条件を聴くのではなく、聴けば聞こえる、阿弥陀如来の本願を聞信するのが浄土真宗の聴聞の作法である。
親鸞聖人は、「信文類(末)」で、大経下巻の「聞其名号信心歓喜乃至一念」を、「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。」(*)と釈されておられる。
聞を信で解釈なされているいるのだが、この本願力回向の信心という言葉の意味を理解できないから、古来「信」に迷う人が跡を絶たないのである。
浄土真宗の信心とは、受動性であり受容するという意味なのだが、明治以来のキリスト教の影響からか、信じるという方向に力点をおき受動性という信が判らなくなっているのであろうか。
と、いうわけで「他力の信の特色」という稲城和上の法話を法話サイト「阿弥陀さまがごいっしょです」のサイトにUPしてみた。
他力の信の特色を、
信順性 「そのまま」ということ。
逆対応性 「如来先手の法」ということ。
無所得性 「ものがらが無い」ということ。
の三種に分けて語って下さったものである。ライブのご法話を文字にしたものであり、和上の口吻、話し方/口ぶりがことに有り難い法話である。
「いつでも どこでも だれにでも 阿弥陀さまがごいっしょです」
http://hongwan.net/4e0f8d9268d57