30代の頃、友人と話をしていた。30年ほど前の話だ。
友人いわく。
この間、嫁と話していて愕然としたわ。20代の頃に話していた事と同じようなことを自分が喋っていることに驚いた。
俺って10年間、いったい何をしていたんかなあって、進歩がない自分に自分でで驚いた云々。
と、いうわけで、人間のこころの深化という話になった。
結局、20代は30代を、30代は40代を生きていく為の、学びという事が必要だという結論に達したものだ。
孔子は、
「吾十有五にして学に志し、
三十にして立つ。
四十にして惑はず、
五十にして天命を知る。
六十にして耳順ひ、
七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず。」
と、いう。
裏読みすれば、15になっても目的を定められず(奇しくも高校選択の時期)、30になっても自らの生きる意味に立脚出来ずに自立できない、
そして40になって迷いの真っ只中にいる自分を自分自身が持て余している。そんな世俗で生きることに汲々としている人々の状況を皮肉ったものと取る事も可能である。
林遊は、「心の欲する所に従ひて矩を踰えず」が好きなのだが、たぶん、矩を踰えてしまいそうだ(笑
さて、僧侶であり教育者でもあった、東井義雄さんに「人生という学校」という詩がある。
「人生という学校」
人生という学校に
七十七年もおせわになって
結局
何になったか醜い
汚れた
みすぼらしい
じじいになった申しわけない はずかしい
じじいになったでも
やっとおかげさまで
お念仏申す以外
何もない私に
していただいた
醜い、汚れた、みすぼらしい、じじいには、誰でもなれる。
林遊はすでになっておる。
しかし、申しわけない、恥ずかしい、と言えるじじいになれるだろうか。
御開山は、日本人に、何をよろこび、何を悲しむべきかを示して下さった方である。
岡本かの子は、
年々にわが 悲しみは深くして いよよ華やぐ命なりけり
という句を残したが、深い悲しみの中に、華やぐいのちの世界を示しているのであろう。
このご法義に出遇えてよかったなあ。
生きる意味も目的も、全部阿弥陀さまの方に用意があったというのが本願のご法義である。
阿弥陀さまが、私を目的として下さったのがこの、なんまんだぶのご法義である。
私に、なんまんだぶを称えさせることが阿弥陀さまの目的なのである。
なんまんだぶの、わたしは、もう既に阿弥陀さまの目的に中にいるのである。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、いよいよ華やぐわがいのちである