浄土真宗の所依の経典、『無量寿経』に「讃仏偈」という短い偈文(讃嘆の詩)がある。
その末尾にある句が以下の句である。
仮令身止 諸苦毒中
(たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、)
我行精進 忍終不悔
(わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ。)
阿弥陀如来が法蔵菩薩で在りしとき、自らの決意を偈頌にされたものである。
この句を読誦するたびに、遠藤周作の『深い河』の一節を思い出す。
>>引用開始
「・・・・チャームンダーは墓場に住んでいます。だから彼女の足もとには鳥についばまれたり、ジャッカルに食べられている人間の死体があるでしょう。・・・彼女の乳房はもう老婆のように萎びています。
でもその萎びた乳房から乳を出して、並んでいる子供たちに与えています。彼女の右足はハンセン氏病のため、ただれているのがわかりますか。 腹部も飢えでへこみにへこみ、しかもそこにはさそりが噛みついているでしょう。 彼女はそんな病苦や痛みに耐えながらも、萎びた乳房から人間に乳を与えているんです」
一時間前までは愛想よく冗談を言っていた江波がこの時、突然、顔をゆがめた。 彼の頬を流れ落ちる汗はまるで泪のように見えた。「深い河」遠藤周作(220~221頁)
>>引用終了
心を病むということも当人以外には理解しがたい苦悩だが、飢渇や病苦に身を冒され飢えと痛みにのた打ちまわる苦痛もある。慈悲の非の語源はカルナー(呻 き)というそうだが、その呻きに自らを同値して救済しようという象徴的シンボルがインド女神のチャームンダーだろうか。
彼女はインドの死の女神であるが 人々を死の世界へ送り届けると同時に、死の縁となった飢渇や病苦の不条理に終わりのない挑戦を続けている存在でもある。
現在の日本では飢渇、飢えるということは考えられないことかも知れないが、飯時の一椀の白飯を前にして飢えに苦しんだ人々にすまないという想いで箸が止ま ることもある。生きるものを糧としてしか生きられないのが人であり、その罪を代わりに受けて下さる存在が「代受苦」である阿弥陀さまなのかもなあ。
善導大師は、慚謝という言葉を教えて下さった。
すまんこっちゃな。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、慚謝、慚謝。
[101223]
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