和讃というものがある。
仏の徳をたたえる讚で仏教讃歌の意味。
日本語のものは和讃といい漢文で書かれたものは漢讃という。
御開山の「浄土和讃」は、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』という漢讃に依って作られたものである。
ちょっと調べたい事があったので、『讃阿弥陀仏偈』と「浄土和讃」を対応させてみた。(ブログネタの仕込み(笑))
成仏已来歴十劫 寿命方将無有量
法身光輪遍法界 照世盲冥故頂礼
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり
http://wikidharma.org/4e316d8da8957
上記のように、御開山は、漢文から和語へと翻訳されながら意訳しておられる。
このように漢讃と和讃の対応と、その翻訳された意訳を見ていくと、御開山がどのような言葉に関心をお持ちになっていたかが窺えると思ふ。
大谷派のお勤めでは、「正信念仏偈」で、「三帖和讃」を繰り読み(和讃を六首づつ繰り込んで詠む)するのだが、節が難しいので林遊は後半はよく間違えてしまう(笑
西のだら節、東のしゃくり節と東西の門徒の間では言っているのだが、東派のお勤めは難しい。
小学生の時に箸を持って、博士「はかせ」(偈文の傍らに記してある、音の高低・長短を示す記号)をなぞりながら習ったので、今でもつい指で博士をたどってしまう。
それにしても、鍬を担いでたんぼへ行くような悠長な時代ではないのであるから、もう少し在家のお勤めは簡単にしたらいいのではないかと密かに思っていたりする。
まあ、なんまんだぶを称えることが生きたお勤めであるので、暇がある時か有縁の人の浄土への誕生日などに「正信念仏偈」を讃歎していたりするのではあるが……。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……これが生きたお勤めである。