日本語には主語がないという。
しかし、受動表現をすることによって、言葉の主語が転換する。
そんな主語がどちらにあるかの話を、SNSからサルベージしてみた。
深川和上の法話の一節である。
和上が入院しておられた時、いろんな方がお見舞いを持って訪問してきた。長期の入院中で暇なので礼状をしたためておられた。
この度は、結構なお見舞いを頂いてありがとうございます。
しかし、ふとご自分で思われたそうである。お前は、一万円の金が向こう側からこちら側へ頂いたのが嬉しいのか。そうではない、お見舞いを下さった人の好意が嬉しいのであろう。それならば頂きましてはおかしい。
頂いたなら主語は私である。下さったなら主語は相手側になる。
阿弥陀さまが、我汝を救うというご法義なら頂いた私に用事はない。下さった御信心を仰いでいくのがこの浄土真宗というご法義である。
とのお示しだった。
如来の御信心(菩提心)であるからこそ、浄土真宗では信心正因といういわれがあるのだが、これは難信之法ではあるな。
以下追筆。
本願成就文に、
諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆誹謗正法
(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して、すなわち一念に至るまで、至心に回向して、かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生することを得て、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く)
御開山は、この文を「回向したまへり」と、敬語表現にされている。
「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。
と、訓(よ)まれ、阿弥陀如来が至心を回向され、その至心を受け容れたときを信心歓喜であると仰る。至心の体は名号であるから、回向された名号を往生の業因であると受け容れ、なんまんだぶと称えるのが往生を得るということである。
『無量寿経』の当面では、衆生が至心(真実心)に回向するるという意味なのだが、御開山のおこころでは回向された如来の至心を受け取るだけだけである。 諸有衆生 聞其名号
とあるように、私の往生の業因は、如来が選択摂取された、なんまんだぶを称えることである、と聞いて受け容れたとき(信一念)私の往生は定まるのである。信心決定とは、阿弥陀如来が決定してくださった「ご信心」を受け容れるか否かなのだが、日本語の主語がどこにあるか理解できない高森会の人には理解できないだろうな。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…
[080907]