前川 五郎松さんに、「阿呆堕落偈」という偈(うた)がある。
《あ》 阿呆になりたや、底抜け阿呆に、阿呆になれたら楽だろな。阿呆になられん阿呆がここに居る。(*)
かって「知性と教養が邪魔をして」という漫才ギャグがあった。このご法義でも、知性と教養が邪魔をして、阿弥陀如来の本願を素直に受け入れにくいのだが、そのような自己を揶揄する偈が前川五郎松さんの「阿呆堕落偈」である。
法然聖人は、
「聖道門の修行は、智慧を極めて生死を出で、淨土門の修行は愚癡に還りて極樂に生ずと」(*)
と、仰ったが、知性と教養が邪魔をして愚癡に還るということは難しいことだと思ふ。
深川和上の「仏力を談ず」中の峻諦和上の語録には、
人は昔そこに生きていた。
全く二本足の動物として堂々と生きていた。
隣に人が生きるようになってうるさくなった。
協定が生まれた。そして段々増えたら道徳を守らなければならなくなった。
段々増えたら法律が出来た。
そして段々人間がおかしくなって来た。
と、ある。
鈴木大拙師は、「とかく智慧才覚とか、学問など云うがらくたが信仰に進むものの、障碍となることは確かである。妙好人には それがないと云うので入信の好条件を具えて居るわけである」と、言われている。ちなみに大拙という号は『荘子』の、大いに拙なりからとられた号であろう。
たしかに、本願には、
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
と、あり、どのように考えてみても死ぬとしか思えないことを、我が国に生まれると欲(おも)え、というのだから無茶な話である。ましてや太陽の沈む西方に浄土があるなどという話は、知性と教養にあふれた現代人には受け容れがたい教説である。
御開山は、比叡山を降り「生死(しょうじ) 生死出づべき道をば、ただ一すぢに」(*)法然聖人に聞かれたと、妻の恵心尼さんは語られている。
その、生死出づべき道を、『歎異抄』では、往生極楽のみち(*)と 言われている。死を生であるとし、往って生まれると仰るのであるからもうすでに死はない。死を浄土への往生と思い定めることによって死を超えているのである。これが浄土真宗というご法義である。
御開山の晩年の御手紙には、「故法然聖人は、浄土宗の人は愚者になりて往生す」(*)と学文(教学ゴッコ)ざたをするさかさかしきひとを戒めておられる。 これは学文をするなという意味ではない。勝海舟は、「学者になる学問は容易なるとしても、無学になる学問は困難なり」と、言ったそうだが、愚者になる学びというものがあるのである。
「おつきさんいくつ」でも書いたが、林遊は科学や知性や教養の場で生きているのではない。こんなものは生死の問題の前では邪魔になるだけである。いちおう世間では馬鹿にされるから賢そうな顔をして生活しているが、いったん生死の問題にぶちあたったときは、原初の二本足の人として本願の言葉に自らをゆだねるしかないのである。弘法大師空海は「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥い」と言われたそうであるが、さすが天才といわれる方の言葉である。
浄土宗の人は愚者になりて往生す。一人の愚か者として本願の言葉を受け容れたとき、愚者に落居する世界が味わえるのである。
なんまんだぶつのご法義は、阿呆である林遊に届けられたご法義であった。ありがたいこっちゃ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…
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2022年1月28日 11:17 PM
お久しぶりです。沢山の
お育てを頂きました。
お陰さまです。
大病しました。
お陰さまです。その間Pcを変えたりしてお尋ね出来なくなっておりました
最近久保龍雲様のご縁で又ウキアーク様にお世話になっております
ありがとうございます。
南無阿弥陀仏