なんまんだぶのご法義では、阿弥陀如来の本願を教えの通り受け容れることを領解(りょうげ)という。この言葉は、領解とあるように、解かるという意味を内包しているのだが、このわかるを四句分別して示す面白い文章があった。
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龍樹・親鸞ノート(三枝充悳)P.76~
念のために付言しますと、智=プラジュニャーは、通常「智慧」と訳されて、知識=ヴィジュニャーナと対応して説明がなされます。後者のほうのサンスクリットのうち、「ヴィ」は「区分する」「分割する」の意味、「ジュニャーナ」は「知」ですから、ヴィジュニャーナは、区分して行ってはっきりとわかったいわゆる分析的な知をいいます。
ふつう、わかるといいますと、
①わかったということがわかっている、
②わからないということがわかっている、
③わかったということがわからないでいる、
④わからないということもわからないでいる、
の四種に区分されますが、これらのうち、最初の①と②とが知識=ヴィジュニャーナに相当します。ところが、③と④とは、その段階では「わからないでいる」ものが、突如として、直観的に、また体験的に、あるいは綜合的に「わかる」ということがあります。
通常これは「わかる」といわないで「さとる」と称します。そしてこれがまさしく般若=智慧=プラジュニャーにほかなりません。
それは上述のような性格を持っていますので、「さとった」と思ったものを、いかに分析して行っても無駄であるばかりか、かえって「さとり」から遠ざかってしまいます。よく「人生の智慧」とか「生活の智慧」とかということばが使われますが、これらは長い人生・生活の体験から、おのずと得られたものであり、ときにその内容が知識と似ている場合もあります。一方、たんなる知識は、他人から教えられたり、本で読んだりして、いわば断片的に得られたもので、体験にまではなりきっていませんから、すぐに忘れてしまいがちです。
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浄土真宗は難信の法だといわれる。
たしかに、ご法話を聴いても二階の阿弥陀さまや浄土の話をするばかりで、そこへ往くための方法がまったく説かれない。(もっとも、人間の生き方の話ばかりで、浄土や仏を話さない坊さんが多いのだが)
門徒は、いかにしたら浄土へ往けるかのノウハウの話、二階へ上がる階段の話を聞きたいのだが、そのような話はない。そして門徒は階段の下でウロウロして法話の内容がわかるとかわからないとか言いながら右往左往している。
階段というものは、一階から二階へ上がるものと見る立場では、一段一段とご法義の理解を深て二階(阿弥陀様の覚りの浄土)へ上るというプロセス経るということになる。これは、上記の①と②の立場であろう。
それに対して、階段とは二階が一階へ延長しているという見方がある。これは二階にいる人の見方である。つまり阿弥陀さまや浄土が一階にいる私のところへ、二階の延長のまま届いてくるという立場である。二階の阿弥陀さまや浄土は、あくまでも二階であるが、それが一階への延長として届くのである。阿弥陀さまと浄土が、なんまんだぶという名号になって二階から一階の私に届くのである。一階にいる私をして、なんまんだぶと称えさせ一階にいるままで、すでに二階(浄土)の延長の上にいるのだというのである。
浅原才市さんは、
ねんぶつの、ほうから、わしのこころにあたる、ねんぶつ。
と、言われたが、上記の四句分別でいえば、わかる/わからないをこえて直感的に体験的に中(あた)ったという表現であろう。上記の四句分別でいわば、③④の立場であろう。(これはもちろん覚りの話ではない)
『無量寿経』「往覲偈」には、仏の声は雷鳴がとどろくようだ、とある。
梵声猶雷震(梵声はなほ雷の震ふがごとく)
わかったとか、ありがたいという知性や感情による認識ではなく、なんと驚くべきご法義であったかと、身心を雷にうたれたような思いの表現手段が、声のなんまんだぶである。
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ