称えるままに本願を聞く

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
0

御開山は、浄土真宗のご法義の宗・体を、

如来の本願を説きて経の致とす、すなはち仏の名号をもつて経のとするなり。(*)

と、本願為宗・名号為体を示して下さってある。
その体(本体)である名号を称え聞くことが、本願を聞くということであり「聞即信」といならわしてきた。称える名号が、如来の信となって届いているということである。
いま、江戸期の名僧、香樹院師(1772-1856)の語録、『香樹院講師語録』から、その一端を窺ってみよう。
なお、原文は「称えるままに本願を聞く」 にあるのだが、現代語の梯實圓和上の『妙好人のことば』が判りやすいので、この本から引用する。


 

江州の木之本のあたりに住んでいた禅僧の弘海は、長年にわたって禅の修業にいそしんでいましたが、どうしても悟りの境地にいたれず、悩んでいたとき、たまたま長浜御坊で香樹院の法話をきき、浄土真宗の教えに帰依し、念仏もうす身になったそうです。
しかし念仏には心ひかれながらもどうしてもしっくりと如来のみ心が領解できず、思いわずらって香樹院にたずねますと、「おみのりを、たえまなく聞け」と教えられました。

「それはまことに結構ですが、法縁は、いつもあるというものではございません。御法話のないときはどうすればいいのですか」
とたずねると、師は、
「何という愚かなことをいうぞ、法話のないときは、いままで聞いたことを思いおこして味わえ。法話を聞いているときだけが聞法ではないぞ」
とさとされたということです。またあるとき、
「そなたは幸いにお聖教の読める目をもっているのだから、つねにお聖教を拝見しなされ、それが聞法じゃ。またもし世間のことにかかわって、お聖教を拝見できないときには、口につねに南無阿弥陀仏と称えなされ、これまた法を聞くことじゃ。このように心得て、志をはげましよくよく聞きなされ。信をうるご縁は、聞思にかぎる」
といわれました。そのとき弘海は、
「法話を聞くことと、お聖教を朗読して、わが耳に聞くことが聞法であるということはわかりますが、わが称える念仏が聞怯だというのは、どういうことでしょうか。わが称えて、わが声を聞くことでございますか」
とたずねたところ、香樹院は大喝していわく、
「なにをいうか。わが称える念仏というものがどこにあるか。称えさせてくださるお方がなくて、この罪悪のわが身が、どうして仏のみ名を称えることができようか。称えさせるお方があって、称えさせていただいているお念仏であると聞けば、そもそもこの南無阿弥陀仏を如来さまは、何のために御成就あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来さまのみ心を思えば、これがすなわち称えるままが、つねに御本願のみこころを聞くことになるではないか」

この一言が弘海の心肝に徹し、はっと心が開けました。そのときのことを弘海は、こう語っています。

「ああ、そうであったか。『大経』の重誓偈に、『われ仏道を成るにいたりて、名声十方に超えん、究寛して聞こゆるところなくば、誓いて正覚を成らじ』(*)と誓われたのはこのこころであったか。いま私に名号を称えさせて、聞かしめておられるのは、必ずたすける阿弥陀仏のいますことを信ぜしめる御心であったのだ。いままで法を聞くといえばただ法話を聞くことだと思っていたのは大きなあやまりであったと恥じいりました」

それからのち、弘海は、法話のないときはつねにお聖教を拝読し、またつねにお念仏を拝聴し、いま称える念仏には、御あるじありて、称えさせたまふなり。しかれば、ただ称えさせるを詮としたまはず、称えさせたまふは、助けたまはんために、一声をも称えさせてくださるるよ。
と思いとらせていただく身になったといわれております。『妙好人のことば』P.203


原口針水和上は、

われ称え われ聞くなれど南無阿弥陀仏
つれてゆくぞの親のよびごえ

と、口称のなんまんだぶを示して下さってある。安心も信心も聴くひとつの、なんまんだぶに仕上げて下さったのを、御本願というのである。
松の小枝が揺れるから風が吹くのではない。風が吹くから松の小枝が動くのである。なんまんだぶを称えて聞いていること、これが御本願のはたらいている証拠である。 ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……

« Prev: :Next »

Leave a Reply