久しく妄心に向って 信心を問う
断絃を撥して 清音を責むるが如し
何ぞ知らん 微妙梵音のひびき
劉喨 物を覚らしむ 遠くかつ深し
*劉喨(声や音のさわやかで澄んでいるさま。)
意訳:
長年、自らの心に信心の有無を尋ねてきた。
しかし、それはまるで絃の切れた琴に向かって、
澄んだ音色を求めるようなものであった。
どうして、浄土から届けられる、
あの阿弥陀如来の、微妙な救済の呼び声を知らなかったのであろうか。
聞くものをして悟らしめる、梵声は劉喨(りゅうりょう)として深遠である。
我ながら下手な意訳だな(笑
この句の「微妙梵音のひびき」とか、「物を悟らしむ 遠くかつ深し」の語は、『浄土論』の「如来微妙声 梵響聞十方」(*)の句を解釈された曇鸞大師の『論註』からであろう。
また、『論註』の「梵声悟深遠 微妙聞十方」(*) の妙声功徳釈にも、「名声ありて妙遠なれども、また物を悟らしむることあたはず」と、仏願の生起のところから名号をお示しであるところからでもあるのだろう。
それにしても、「断絃を揆して 清音を責むるが如し」、という表現ははいいな。
真実の信心とは、阿弥陀如来の信心(菩提心)と同じ心をいうのであるが、信心正因という言葉を取り違えて自らの 妄心の中に信心とやらを求めるならば、それは御開山聖人のお示しとは、全く隔絶した領解と言わざるを得ない。近年、成就文の一念を曲解し、名号なき、単信無称の邪義をもって大衆に勧化する、北陸の一狂惑者があると仄聞する。
所詮は、自らがこしらえた、有りもしない安心とか信心に沈潜する妄心の拵えた信であろう。なんまんだぶという名は、物を悟らしめる仏事をなすのである。
なんまんだぶという名号には、破闇満願(闇を破り志願を満たす)の徳用がある。自らの心を妄念に縛りつけるような信ではなく、自らを解放していくはたらきが、なんまんだぶの信である。御開山は、そのこころを、
しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。
と、お示しである。浄土教興起のところから、なんまんだぶを離れた信はないのである。
和上から、割れた尺八は鳴りません、という法話を聴いたが、打っても叩いてもウンともスンともしない林遊に、聞くものをして悟りへ至らしめる、なんまんだぶが届いているのはありがたいな。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
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